任せられることで自信を取り戻す 2026年3月1日
当時僕は中学一年生だった。
母は自宅の離れで絵画教室を主宰しており、父は婿養子で国家公務員、毎日電車で一時間半かけて通勤している。四歳下の弟がいる。五月下旬、学校を休みがちになってきた僕のことで、母が当フォーラムの事務所に相談に行った。
母は、四月八日から始まった僕の中学校の連絡帳のコピーを持参していた。ひげぐま先生は、その連絡帳には僕の学校生活への緊張感が垣間見えた一方で、僕が担任に読まれることを意識して書いている様子を読み取ったようだ。しかし、僕はときおりYouTubeや人気漫画、ゲームに夢中になっていることを、思わず書いてしまった。
母親によれば、中学校が始まって二週間ほど経った頃から、彼は「休みたいなあ」と口にするようになったという。連絡帳の内容から判断すると、漫画やゲームによる夜更かしや、体験部活動でのシャトルランなどによる疲労が重なっていたようだった。
連絡帳の束や、小学四年生頃から母親が書き続けていた記録ノートを見ると、母親の強い心配性と過干渉の傾向が感じられた。母親には関西に弟がいるが、実家は母親が継いでおり、生活は比較的安定しているという。
僕は小学四年生までは、学校で自分の意見をはっきり述べ、学級委員を務めていた。
ところが五年生のクラス替えで仲の良い友だちと離れ、新しいクラスでは同性の友だちがなかなかできなかった。ようやくできた友だちも、僕が苦手とする男の子と一緒にいることが多く、次第に距離ができてしまった。
六年生になると、仲良くなった二人の友だちは不登校気味の子どもたちだった。中学校でも同じクラスになったが、その友だちも欠席が多く、僕自身もクラスの中で孤立していった。
しかし担任の先生が読むから、僕は連絡帳にはそうした内面は書かないし、本音も書かない。
僕の心理テストには、自分の感情を抑え込み、過度に周囲の目を気にする傾向が明確に表れていたようだ。自己肯定感の低さは、母の過干渉と強い心配性の影響が大きいと言われた。また、家庭と学校で心理状態が対照的であることも言われた。
僕は家庭では「若きウェルテルの悩み」型で、自他に厳しく、規範意識の欠如が気になっても感情を表現できず、相手を気遣って言葉にできないまま内面で葛藤していると言われた。一方、学校では自他に甘く、世話焼きな姿を見せる。共通しているのは、感情を抑圧し、周囲の評価を過度に気にする点、すなわち自己肯定感の低さと指摘された。
六月からひげぐま先生らの支援が始まった。僕の週三回のカウンセリングと、両院の週一回のペアレントトレーニングである。僕は完全な不登校には至っていなかったため、カウンセリングの時間はその都度調整しながら、父性の成長プログラムを受けた。
効果は比較的早く現れ、僕の生活習慣が徐々に整い始めた。YouTubeや漫画、ゲームの時間にも自制が働き、朝ぐずることも減っていった。
八月、長野県で行われた二泊三日の交流合宿に参加した。事前の三回のミーティングとチームビルディング研修を通して、先生に僕の自己肯定感を高める役割を探ってもらった。
自己紹介の場で、僕は父親の影響で写真撮影が好きだと話した。そこで、先生は合宿中のカメラマン役を僕に任せると言ってくれた。
合宿当日、僕は父から望遠付きデジカメを借り、出発式から休憩時間、さまざまな活動場面で、僕は参加者の自然な表情を写真に収めていった。撮影のたびに写真を見せて、気に入った写真を参加者に選んでもらった。僕自身の写真が残らなくなるため、大学生リーダーをサブ役として付けてくれた。
夕食時には、僕はその日撮影した写真を皆の前で披露した。参加者たちはたいへん喜んでくれ、僕は褒められた。
合宿後、大学生リーダーのお兄さんとに相談しながら写真集を制作した。実施報告会でその写真集が配布し、参加者の保護者の皆さんからも感謝の言葉を頂いた。父も満足そうな表情を見せてくれた。
こうして僕は自信を取り戻し、二学期以降、休むことなく登校を続けるようになった。
人は励まされるだけでは変わらない。信じて役割を任され、「自分が誰かの役に立っている」と実感したとき、はじめて内側から力が芽生えるのである。
僅か1か月の対応で授業復帰する 2025年12月30日
きちんと指導してもらえれば、こうして短期間で回復に向かう僕もいる。その一例である。
母と相談に行ったのは、2月21日だった。
当時、僕は中学1年生。前年の9月から不登校の状態だった。ただ完全な不登校ではなく、9月は4日、10月は5日、11月は7日、12月は6日、1月は4日、2月はこれまでに3日出席していた。
僕は「授業に出られるようになりたい」と強く希望していた。完全な不登校ではないことから、ひげぐま先生から授業復帰は十分可能であり、難しくないと言われた。
家族は、49歳の会社員の父、47歳でパート勤務の母、21歳と16歳の姉の五人家族である。
僕は不登校の原因をなかなか口に出せなかった。だから、母も理由が分からず困っていたようだ。幸いにも、僕の友人が先生の教え子の子どもであったことから、その日の夜に先生は僕の友達に話をいたようだ。僕が部活動のサッカーでキーパーをやらされ、みんなからシュートを打たれ続け、いわば「ボコボコにされた」体験がきっかけではないか、との先生に言ったという。
親子で心理テストを受け、先生は以下のエゴグラムを作成してくれた。

その結果、親子ともに自己肯定感が非常に低いこと。僕の不登校をきっかけに、親自身もすっかり子育てへの自信を失ってしまっていると言われた。
一方で、父にはしっかりとした父性(CP)――不登校解消に向けた「水先案内人」となり得る力――が備わっており、母にも中程度ながら母性(NP)、すなわち疲れた心を癒す役割が見られたようだ。そこで先生は、父が中心となって僕の不登校解消へ導いていけると判断した。
二人の姉に囲まれて育った僕は、非常に優しく、協調性を何よりも重んじる性格(ACの高さ)であると言われた。けんかなどはもってのほかで、仮に他者と対立しても、僕は自分を責め、後悔と反省の念に囚われてしまう。失敗した際にも、「あの時こう言っておけばよかった」「勇気を出してやってみればよかった」と、僕は一人で悩み続ける傾向が強いと言われた。
そのため、キーパーをやらされて皆から攻撃されるという、明らかにいじめと捉えられる状況にあっても、大河内清輝君(仲間を庇い、自分を責め続けた末に14歳で自死した少年)のように、僕は加害側を庇い、自分を責め、その事実を誰にも語らなかったのである。周囲の目を過剰に気にするあまり、授業にも出られない状態に陥っていると、先生は分析した。両親の心理分析は、僕は知らない。
「普通に授業に出たい」という僕の希望と、両親の同意のもと、直ちに支援を受けた。出席認定を受けながら、平日午前3時間の学習、父性と感性(FC)を成長させるための週3回のカウンセリング、さらに毎週土曜日には、両親はペアレントトレーニングを受けた。
同時に、いじめを証言してくれた僕の友だちとサッカー部の顧問の協力を得て、先生は僕を傷つけた生徒たちとの面談を行った(もちろん、保護者の同意を得た上でである)。そこで先生は、いじめが人権侵害であることを、丁寧に、しかし明確に伝えてくれた。
両親は、約1か月間アドラー心理学を学び、父、母、それぞれの役割と具体的な行動を身に付けていった。
新学期4月からの普通登校を実現するため、僕は春休みに、2泊3日の長野での交流合宿にも参加した。僕にとってはタイトなスケジュールであったが、春休み期間を利用して学習塾で勉強を指導してもらい、僕は学習面の遅れも取り戻すことができた。
その結果、僕と両親の頑張りが実を結び、僕は自らの望みどおり、新学期初日から普通に登校を再開した。
躁うつを乗り越える 2025年12月23日
(前話「怠業を克服した少女」に続く)
当時私は中学1年生だった。医者から双極性Ⅱ型(当時は躁うつ病と呼ばれていた)と診断されていた。
躁状態のときは、私は元気に登校し、よくしゃべった。しかし話し続けるため、私の友達は次第に会話に入り込めなくなり、離れていった。私はその友達を追いかけ、さらに話し続けた。一方、うつ状態になると、私は能面のように表情が消え、気力も失せ、ひきこもり状態となり、不登校になった。
ちょうどその頃、翌年10月に、ひげぐま先生は長年学んできた「交流分析」の第一人者である杉田峰康・福岡県立大学教授(当時)を招きし、1泊2日のワークショップを企画していた。会場は浜名湖畔にある日本商工会議所の研修施設「カリアック」。県内外でカウンセラーとして活動する25名を対象に、カウンセリング技法を教授していただく専門的なワークショップであったという。
先生にとっては、約16年間学んできた交流分析を、初めて1泊2日という形で、杉田先生から直接、集中的に教授していただく貴重な機会でもあったようだ。
年が明けてから、中学校にて養護教諭の立ち会いのもと、私は母と一緒に校長先生から紹介されたひげげま先生に会った。精神科で双極性Ⅱ型と診断されたが、まだ初期段階で比較的軽症であると説明を受けていることも伝えた。
早速、先生は杉田先生に時間を取っていただき、電話で状況を詳しくお伝えした。そして、ワークショップまでの期間に、私たちができる対応について助言を頂いたようだ。
1週間後、再び中学校にて養護教諭同席のもと、私は母と一緒にひげぐま先生に会った。先生は、杉田先生から教示された対応方針を説明し、私と母親の意思を確認した。先生は、躁うつ状態に至るメカニズムを説明した上で、心理学的アプローチとして、発症の引き金となった精神的ショックの内容と、未処理の感s情を明らかにし、それを丁寧に処理することで回復を目指すと言われた。
先生から精神科領域にも関わる内容であるため、精神科への継続通院を条件に、心理学的アプローチを併用する形で進めることを提案された。初期段階で症状が軽いことも、この判断を後押したと言われた。
先生は両親と私の同意を確認し、週2回のペースで支援を開始した。両親は2週間ごとに面談に行った。なお、私は本格的なカウンセリングはワークショップ後に実施すると言われ、それまでの間は学習指導を中心にしてもらい、帰り際の15分程度先生との「語らいの場」を設けてもらった。
私は感情の起伏があるため、欠席することもあったが、次第に躁状態の激しさや、うつ状態の落ち込みは落ち着いていった。ただし、時折、私は思い出したように症状が強まることもあり、先生は私との信頼関係を維持することが大事であるとよく言われた。
その間、私との15分間の語らいの場や両親との面談を通して、先生に発症の起因となった精神的ショックの内容の真偽、そして未処理の感情の実態を丁寧に分析してもらった。
ワークショップでは、杉田先生から受講生一人ひとりに実際のカウンセリングが行われ、その技法を直接学ばせていただいた。夜には先生とワインを飲みながら(これも心をリラックスさせる技法の一つであると教えられた)、ひげぐま先生から私の近況を報告し、私へのカウンセリングについて、約1時間半にわたり特別にご指導を頂いたと、後に先生から聞いた。
最も重要なポイントは、ショックから生じた不安を徹底的に取り除き、私が安心感を取り戻すことであった。その前提として、ショックの内容の真偽と、未処理の感情の真実を見極めることが不可欠であることを杉田先生に教えられたと、ひげぐま先生は言われた。
結果として、私は奇跡的とも言える回復を見せ、笑顔を取り戻し、学校の授業にも楽しく参加するようになった。もちろん、精神科での治療を継続していたことも、回復を支える大きな要因であったと、先生は言われた。
怠業を克服した少女 2025年12月22日
相談が入ったのは、彼女が中学1年生の10月下旬であった。母親が来談した。
9月2日から学校には行っていないが、土日の部活動には参加しているという。
家族構成は、60代半ばの祖父母、自営業の43歳の父親、36歳の母親、小学4年生の妹、小学2年生と年中の弟の7人家族である。
祖父は無口で、ただ黙って話を聞くタイプである。一方、祖母は気が強く感情的になりやすく、一方的に話し、同じことを繰り返す傾向があった。父親は祖母よりも冷静で、言うべきことはきちんと伝えるタイプであり、子どもの世話もよくしていた。母親は、自身でも「感情的になりやすい」と自覚していた。
父親が自営業で多忙だったこと、また彼女が生後1か月で母親がパートに出たことから、幼少期より祖母が主に彼女の養育を担ってきた。祖母は家が汚れることを嫌い、絵を描くなどの遊びを制限することが多かった。近所の同級生が男の子ばかりであったため、一つ年下の女の子と遊ぶことが多かったという。
友達を欲しがり、休日になると朝7時頃から遊びに出かける彼女を、世間体を気にした祖母はよく叱責した。年中から通った幼稚園では登園しぶりが見られ、祖母の毎日の叱責が影響したのか(と私は判断している)、年長になる頃には言葉遣いがきつくなった。しかし団体行動は取れるようになった。
一方で、生後から叱責が続く養育環境の影響と考えられるが、落ち着きがなく、気に入らないことがあると友達を噛む行動が見られ、児童相談所に相談したこともあった。また、小さい頃から妹を毛嫌いしていたという。
小学校に入学すると、年配で穏やかな女性担任であったこともあり、喜んで通学した。しかし、担任が出張で不在の際には教室に入れないことがあった。2年生の1学期、友達の工作を壊す行為が数回あり、その都度、代わって担任となった20代の女性教師から注意を受けた。2学期にその担任が産休に入り、代わった担任が行動を咎めなかったため、いたずらが増えたが、3年生で男性担任になるとそうした行動は見られなくなった。
学業成績は突出して良いわけではなかったが、4年生までは何とか登校を続けた。4年生の12月、体格の良い彼女はスポーツ少年団のバレーボールを見学し、気に入り体験入部、5年生から正式に入部した。
5年生までは男性担任が続き、その頃から思春期を迎え、父親を避けるようになった。また成長が早く、体つきが豊かであったため、男子からの視線を心配した母親が、担任から指摘を受けたこともあった。
5年生では、4年間仲良くしていた友達と別れ、クラスの女子は近所の子ではなかったため、孤立感を強めた。班づくりであぶれることもあり、「友達がいない」と口にするようになった。5月のキャンプで初潮を迎えたことをきっかけに欠席が増え、週に2日ほど休むようになった。次第に学習の遅れも生じた。
6年生の体育祭には出場したが、事前練習への欠席が多く、集団演習には十分参加できなかった。11月の修学旅行には参加したものの、3学期になると欠席日数はさらに増え、「勉強が分からない」と訴えるようになった。心療内科を受診し、連続欠席を避ける指導を受けたが、登校への足取りは重かった。
中学進学後、好きな男子ができた。しかしその彼から「ばい菌がうつる」「噂されるのは迷惑だ」と言われ、深く傷ついた。担任の励ましもあり、彼女はクラスの代議員、さらに学年の代議員長にも立候補し、選出された。
一方で、友人と祭りに行こうとした際、相手の母親から「あなたと付き合っているので、うちの子の成績が落ちた」と電話で言われ、その後は連絡を拒まれた。
1学期の欠席は15日であった。担任は彼女について、「入学当初は元気で、代議員にも立候補するなど意欲的だった。言葉遣いが攻撃的になることはあるが、学級内に話し相手がおり、孤立している様子はなかった。欠席はあったが、小学生時代より良い傾向だと感じた」と評価している。
親子で心理テストを実施し、分析を行った。
彼女は、NP(母性)とFC(感性)が非常に高く、思いやりがあり世話好きで、笑顔を絶やさない楽天的なタイプである。そのため好意を寄せる人も多い。
中程度のCP(父性)とA(知性)を持ち、人間関係は概ね良好であるが、FCが高すぎるため感情のままに行動しやすく、低いAC(順応性)と相まって周囲の目を気にせず行動する。一方で、低めのCPにより年齢相応の生活習慣を自制する力が弱く、「怠業型」の不登校と判断した。
父親と母親については、本稿の趣旨から割愛した。
翌日、彼女とじっくり話し合い、高校進学という本人の希望を尊重し、学校に行けない日は当フォーラム教室で学校と同じ時間割で学習し、加えて週3日の当グループの塾の授業にも参加する方針を示した。部活動も継続したため、非常にハードな生活となったが、個別対応で学習の遅れを防いだ。
宿題未提出の背景には、完璧主義があった。少しでも分からない部分があると提出できなかったため、「分からなくても提出する」ことに同意させた。また、高いNPを活かし、ドラマの登場人物の感情を追体験することで、ACの成長を促す訓練も行った。
指導開始から約1か月半後、12月20日、修了式直前の日に、彼女は1時間目から登校を果たし、自らの怠業を克服した。
修了式後、校長からこれまでの対応への感謝が述べられた。実は彼女の両親は校長の教え子であり、その縁もあって彼女のことを気に掛けていたという。その後、新たな不登校生徒の相談へとつながっていった。
(次話「躁うつを乗り越える」に続く)

転校を繰り返す少女 25年12月20日
本紙「校長最後の3月31日、心残りなく校舎に施錠させてもらった」で登場した元A中学校校長・当時某私立高校教頭先生から、お電話を頂いた。同高校2年の女子高校生の不登校の相談だった。その高校に出向いて、その教頭先生と本人、彼女の母親とお会いした。2学期が始まったばかりの9月1日の話である。
家族は、56歳の父親に52歳の母親、30歳の社会人の兄、22歳の大学生の兄、17歳の高校生の兄で、彼女はやっとできた女の子だった。前年の9月、彼女は友達とのトラブルで不登校になり、同年10月22日付けで、地元の県立高校特進科から当該私立高校に転校してきた。その私立高校に友達がいて、「いい高校だから」と言うので転校した、と彼女は言う。
ところが、その友達ともトラブり、僅か7,8日出席して再び不登校になった。先にトラブルになった同県立高校の友達から紹介された同じ県立高校の彼氏とも、不登校を理由に連絡が取れなくなった。いや、彼女自身が連絡を取らなくなった、と言うのが正しい。彼女自身は「不登校生」と見られたくない、と言ってきた。だから、通信制高校転校は気が進まない、と言う。
しかし、既に当該私立高校では、10か月で僅か7,8日の出席では単位は取れず、留年が確定している。そこで私は、県立高校通信制課程と、県西部の寮のある私立高校、当フォーラムが提連携する科学技術学園高校通信制課程・E―lerningを紹介した。科学技術学園高校では、当該私立高校の定期試験を受験し、その試験結果のデータで1年の単位認定するとまで譲歩してくれた。
心理テストも採ると、父性PC(頑固親父性)37(100点中、以下同じ)、母性NP(お節介おばさん性)83、知性A(コンピューター人間性)27、感性FC(やんちゃ性)60、順応性AC(いい子ぶりっこ性)95だった。「密かに恋してる」ひきこもり型の不登校だった。即ち、優しい。いい子ちゃんでいたい気持ちが強く、常に人の顔色を伺う。人が自分のことをどう思っているか異常に気になり、敏感で神経質になり、外に出れず、ひきこもるのである。与えられた課題などはこまめにこなすが、気持ちの切り替えはそれほどうまくない。また、本来は相反する感性と順応性が共に高いと、「愛の虜のサイン」と言って、自分の感情が付出てしまう(感性の高さ)、且つ相手の気持ちが非常に気になる(順応性の高さ)「密に恋してる」状態である、と分析した。。
その後数回の面談の結果、彼女は科学技術学園高校通信制課程・E―lerningコースに転校することに決め、週3日当フォーラムに通い、1日3時間の学習がスタートした。
そして、毎月行われる燻製作りやカヤック体験などの野外活動にも参加し、同世代の仲間たちとの交流に積極的に参加した。また、翌年3月の下旬に沖縄本島で行われた大自然交流合宿にも参加し、同世代の仲間たちと群れ集い、シュノーケリングや琉球ガラス工芸、チームビルディング研修などの活動を行い、仲間を知り、己をも知り、コミュニケーション能力も身に付けた。
ここに沖縄の海で、彼女が女子リーダーと一緒にシーカヤックに乗り、微笑む写真がある。
ひきこもりからの自立 2025年12月19日
5月末、40代半ばの母親が、実兄の紹介で来所された。当時18歳になる息子のひきこもりについての相談であった。
家族構成は、母親より5歳年上の職人の父親、年子の妹、そして70代半ばの祖母である。父親と同じく職人だった祖父は、10年ほど前に亡くなっていた。
本人は、小学5年生の頃から学習につまずきを感じ始めたというが、その後も学校には通っていた。徒歩で30分ほどかかる中学校に進学した4月中旬、登校途中に急な便意をもよおし、慌てて帰宅したことをきっかけに、そのまま学校へ行けなくなった。
母親が父親に相談しても、当初、父親は本人と向き合うこともなく、何の対応も取らなかった。子どものことはすべて母親任せであったという。その後、父親は当時の同業者組合の役員を引き受け、多忙と苛立ちから、長期化する不登校の息子に対して言葉の暴力を振るうようになった。母親は、「彼が小さい頃から、父親が彼を褒めた記憶はない」と語った。
それでも時折、近所の友達が誘いに来てくれ、登校することもあった。中学2年までの出席日数は、合計しても55日ほどであった。7歳年上の父親の実姉の娘(彼の従妹)が心配し、時折勉強を教えながら学校へ行くよう促すと、その日は登校する、という状態であった。
3年生になると、彼は突然「俺は高校に行く」と言い出し、再び学校へ通い始めた。その変化に家族は驚いた。しかし進学した高校は、1年の終わりに、これもまた突然中退してしまった。その後は、バイク(といってもカブであったが)で遊び回る日々が続いた。
17歳になると、「楽しむ場として」市の教育センターに通い始めたが、2か月ほどで通わなくなり、再び家にひきこもるようになった。
「家にいるなら家業を手伝え」と言う父親に対し、「アルバイトを探す」と言って外に出たが、「中卒では仕事に就くのは不利だと実感した」と本人は語っていた。アルバイトは見つからず、家業を継ぐ気もなく、再び自室に閉じこもった。
翌月半ば、母親の実兄の説得により、本人が私のもとを訪れた。
面談の冒頭、彼はこう捲し立てた。
「俺を完全な形で社会の中に産み落とさない親が悪い。生きていけない社会にした親が悪い。社会は自分で築くものじゃない、親が築くものだ。幸・不幸も個人が感じるものじゃない。親がそういう社会にしている。俺をコリン性蕁麻疹の体に産んで運動できなくしたのも、勉強が分からなくなるような俺を産んだのも親だ。だから、俺が働けるようにするのは親の責任だ。」
すべてを親の責任に帰した言葉であった。
さらに彼は、紙に図を描きながらキリスト教の天動説について語り始めた。己を中心に世界が回っている、とでも言いたかったのか。そのときに描いたB5サイズの紙が、現在も3枚残っている。
今後について話し合おうとしたが、彼は「今はキリスト教のことを考えたい。それ以外は何もしたくない。考えがまとまったら連絡する」と言い、その日は終わった。その旨を、彼を紹介した叔父に伝えた。
それから3か月後、母親が再び来所した。
彼から「ガスボンベを買ってきてほしい」と言われ、自殺を考えているのではないかと恐ろしくなり、断ったという。当時高校3年生の娘の進路のことも重なり、心身ともに限界に達して、前日から実家に帰って静養しているとのことだった。父親は相変わらず関与せず、母親は離婚も考えていると語った。
母親の帰省でまず親族が動き始めた。父親の実姉が、父親に息子と向かい合うべきだと説得し、父親はようやく息子と向き合う場が生まれた。
中学時代彼に勉強を教えた当時26歳の彼の従妹(父親の実姉の娘)から会いたいとの連絡があり、車で出向き、お会いした。聴くに、彼は母親は自分から逃げたと思って込んでいる、父親には、母親の帰省は今までひとりで彼のことを抱え込ませてきた結果だと、強く言ってきたとのことだった。
その日の夕方、父親から私に会いたいとことで、彼の家に出向いた。翌日早朝、父親と彼、祖母(母親の義母)と三人で母親の実家に向かい、母親に会いに行くので、私に間に入って欲しいとのことだった。
翌日昼、私の立ち合いでまずは父親と母親と話し合った。父親と彼とで、私と話し合う日時・場所を決め、私に連絡をすること、夫婦のことは彼のことが落ち着いてから話し合う、との話になったところで、母親が過呼吸になってしまい、父親に帰ってもらった。従って、彼と義母は、母親に会えずに帰ることになってしまった。
1週間後、父親から連絡があり、彼と父親、祖母に、父親の実姉、その娘(彼の従妹)と話し合った。結果、彼は「働くことは義務である」「親の言うことに従う」ことに同意した。
翌年1月まで、寮のある高校での宿泊体験や、パソコン技術の習得、アパートでの独立など、現実的な選択肢が検討された。最終的に、彼は家を出て働く道を選んだ。
その後2か月余りで、20社を超える面接を受け続けたが、結果は思わしくなかった。しかし、彼の真摯な姿勢に心を動かされた私の知人の紹介で、アルバイト先が決まり、働き始めた。
やがて母親と同居しながら仕事を続け、妹は他県の大学へ進学した。義母の同意もあり、夫婦は離婚となった。翌春、ハローワークでのパソコン研修を終え、紹介を受けた職場で、彼は社会人としての一歩を踏み出した。
この青年の歩みを交流分析の視点で見ると、彼は長い間「自分で考え、決めて行動する力」を育てにくい環境に置かれていたように思われる。
父親との関係において、認められたり肯定されたりする経験が乏しく、その結果、「自分はまだ社会に出る準備ができていない」という感覚を強く抱くようになっていたのではないだろうか。
不登校やひきこもり、そして「すべては親の責任だ」という激しい言葉は、反抗というよりも、自分の人生を引き受けることへの恐れの表れであったように見える。責任を外に置くことで、かろうじて心の均衡を保っていたのである。
転機となったのは、父親を含め家族がそれぞれの立場で動き始め、彼が「働く」という現実的な選択肢と向き合う場が生まれたことだった。
見捨てられていないという関係性の中で、彼は少しずつ自分で動くことを選び始めた。
回復とは、ひきこもりの状態から外に出ることだけを指すのではない。
自分の人生を、他人任せではなく「自分の選択」として生き始めることである。
この青年は、多くの回り道を経て、ようやくその一歩を踏み出したのである。
複雑な家庭環境の中でも不登校を乗り越える 2025年12月13日
10月中旬、母親が相談に訪れた。
中学1年生の女子生徒が、2学期に入った9月から突然学校へ行かなくなったという。不登校の理由を尋ねても、本人は「分からない」と一言だけを残し、口を閉ざしてしまう。朝は目を覚ましているものの、ベッドから起き上がろうとせず、無理に起こそうとすると、無言のまま激しく抵抗する状態が続いていた。
家族構成を伺うと、彼女の心理状態が想像できた。
母親は40歳。彼女が小学4年生の時に離婚し、翌年、本人と妹、弟を連れて再婚相手と同居を始めた。その男性にも連れ子があり、さらに新たに生まれたきょうだいも加わり、家庭は複雑な構成となった。
その過程で、彼女は養父側の家庭内で起きた虐待を目の当たりにしていた。虐待を受けて育った養父は、我が子も虐待する。児童相談所の介入や施設入所といった出来事も重なり、家庭内は常に不安定で緊張に満ちていた。
彼女自身が直接的な被害者ではなかったとしても、暴力や恐怖を「見せつけられる」環境に置かれていた影響は大きい。安心して気持ちを預けられる大人との関係や、温かな心の交流は、彼女の生活の中では極めて希薄だったと言える。
2日後、本人と面談し心理テストを実施した。
結果は、周囲に過度に気を遣い、自分の気持ちを抑え込み、自己主張が極端に難しい心理状態を示していた。いわゆる「よい子」であろうとする一方、自分の感情を外に出せず、限界に達した結果として、心と身体が学校を拒否している状態であった。
このような心理的傾向は、彼女の性格というよりも、成育歴の中で繰り返されてきた家庭の不安定さや、居場所のなさによって形成されたものと判断した。この分析については、本人と母親の同意を得た上で、当該中学校とも共有した。
なお、母親自身もまた、周囲に合わせ過ぎて疲弊しやすい心理傾向を抱えており、親子双方への支援が必要であると考えられた。
彼女が「学校に戻りたい」という思いを大切にしながら、私たちは週2回の学習支援とカウンセリングを開始し、あわせて交流合宿への参加を提案した。
対応開始から1か月後、彼女の心理状態は一時的に不安定さを増した。抑え込んでいた感情が表に出始め、怒りや不安が強まったのである。これは回復過程でしばしば見られる変化であり、私たちはその揺れを否定せず、受け止め続けた。
4か月後、再度行った心理テストでは、彼女の状態に明確な変化が見られた。
周囲の目を過度に気にすることが減り、自分の感情を言葉にし始め、同年代の子どもとしての自然な生活――毎日学校へ通うという意識が芽生えてきたのである。
彼女の成育歴には公的機関の関与もあり、詳細な対応については個人特定を避けるため割愛するが、この期間を通じて私たちが大切にしたのは、彼女を「問題のある子」としてではなく、一人の人間として尊重し続ける姿勢だった。
ロールレタリングを通して実の父親との関係に向き合い、自身のルーツと折り合いをつけていく中で、彼女は少しずつ自己の軸を取り戻していった。
そして4月、新学期を迎えた彼女は、再び当該中学校へ登校するようになった。
交流分析の視点から見ると、彼女の不登校は「怠け」や「わがまま」ではなく、これまでの成育環境の中で身につけざるを得なかった生き方の結果であったと言える。
常に周囲の空気を読み、衝突を避け、自分の感情を後回しにすることで家庭内の不安定さを乗り切ってきた彼女にとって、学校に行けなくなることは、心が発した精一杯の防衛反応だった。
支援の過程で大切にしたのは、彼女を変えようとすることではなく、安心して自分でいられる関係性を積み重ねることである。
責められない、急かされない、評価されない体験の中で、彼女は少しずつ自分の気持ちを感じ取り、それを表現できるようになっていった。
その結果として現れた再登校は、目標ではなく、回復の自然な結果だった。
人は、安心できる関係の中でこそ、自ら前に進む力を取り戻す。
この事例は、そのことを静かに、しかし確かに示している。
勉強で行き詰る 2025年12月12日
相談は、彼が中学1年生の11月下旬に入った。
彼は小学校6年生の3学期に不登校となったが、中学校に進学後、1学期は頑張って登校した。しかし2学期に入ると再び不登校になってしまった。困り果てた父親が仕事の関係で私を知り、母親が本人を連れて相談に来られた。
母親によれば、3歳児健診で言葉の発達の遅れを指摘され、小学校6年生まで病院の言葉の教室に通っていたことがあり、それが影響して勉強についていけなくなったのではないか、とのことだった。また、首筋にあざがあり、それを友達にからかわれたことも原因ではないかと話された。
両親は共に41歳。父親は会社員、母親はパート勤務で、3歳下の弟を含めた4人家族である。
本人の心理テストを実施したところ、以下のエゴグラム(11月24日付・水色)となった。

最も低いのはCP(父性・頑固親父性)、最も高いのはAC(順応性・いい子ぶりっこ性)であった。このことから、他者優先的で遠慮深く、妥協的・順応的な傾向が強く、周囲の目を過度に気にするため、学校へ行くという行動が取れなくなっていると考えられた。
2番目に高いFC(感性・やんちゃ性)からは、遊びやリラックスが比較的得意で、開放的な一面も見られた。一方で、CPが低く、A(知性・コンピューター人間性)が平均的であることから、言葉の発達の遅れも影響し、自己主張や反論ができず、首筋のあざをからかわれても言い返せなかったと分析した。これらの分析内容は、本人および母親に伝えた。
CP、A、FCの成長を目標に、週2日のカウンセリングを兼ねた学習支援を提案した。また、NP(母性)を育てる目的で、本人が強く希望していた子犬を飼うことも勧めた。
本人と母親の同意を得て、特に苦手としていた英語・数学・社会を中心に、1日3時間、週2日の学習支援と、毎回30分のカウンセリングを開始した。これらの支援内容と心理的分析については、本人・母親の同意のもと、当該中学校にも伝え、学習支援への参加は出席認定として扱っていただいた。
学習支援では、1日でも早く遅れを取り戻すことを目標に、教科書と学校配布の副教材のみを使用した。当フォーラム独自の「自立学習の進め方」をまとめた冊子を渡し、5教科それぞれの具体的な勉強方法を丁寧に指導した。彼の理解のスピードに合わせてじっくり進め、理解できた内容については必ず宿題を課した。
子犬については、早速飼い始めることとなった。
英語は、単語を覚え、文法構造を理解することで、徐々に文章の意味が取れるようになった。数学は、負の数の計算原理を理解したことで計算速度が上がり、文字式や一次方程式でつまずいていたことが明確になった。社会では、事件の「原因・経過・結果」という流れを意識し、教科書を繰り返し読むよう指導した。国語と理科についての詳細は割愛する。
1週間ほどでフォーラムにも慣れ、休憩時間には一緒に通う生徒たちと会話を交わす姿も見られるようになった。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。12月上旬、本人は「途中まで自転車で行ったが、嫌になって家に帰ってしまった」と話した。しかし、フォーラムでできた友達が彼の欠席を知り、「一緒にがんばろう」と電話をしてくれたという。次回は休まず来所した。
また、家庭学習で理解できず、悔し涙を流していたことを母親から電話で知らされたこともあった。次回来所時に宿題をやってきたことを認め、理解できなかった理由を一緒に整理すると、「なるほど」と納得する様子を見せた。
冬休み中は毎日通い、1月に入ると週2日の予定にもかかわらず、週3日来ることもあった。
カウンセリングでは毎回、彼の話を丁寧に聴き、解釈を伝えた。内容は個人的かつ支援の核心部分に関わるため、詳細な記述は割愛するが、思春期特有の悩みも多く含まれていた。
約2か月後に再度実施した心理テスト(2月3日付・えんじ色)では、自分から語る姿勢が見られ、自己主張と行動をコントロールするCPが成長していた。子犬の存在も影響し、人を思いやるNP、学習を通して鍛えられたA、友人関係によって感情を素直に表現できるようになったFCが、それぞれ大きく伸び、FCはACを上回った。支援当初に目論んだ変化であった。
残る課題は学習面での追い付きであったが、本人が納得するまで支援を継続した。6月下旬、本人からの申し出により、木曜日の放課後に、彼が指名した友達(本人の同意あり)と共に学校で翌日の時間割を確認し、同行登校を行うこととなった。7月から、彼は当該中学校への再登校を果たした。
交流分析の視点で見ると、彼の不登校は「能力の問題」ではなく、自分の気持ちや考えを外に出せなくなった心の状態として理解できる。周囲に合わせ過ぎ、自分を後回しにする癖が強くなると、人は行動するエネルギーを失っていく。彼の場合、それが「学校に行けない」という形で表れていた。
支援の中で大切にしたのは、叱ることでも励まし続けることでもなく、安心して自分を出してもよい関係性を積み重ねることであった。学習支援やカウンセリング、仲間との関わり、子犬との生活を通して、「やってみる」「失敗しても大丈夫」「自分の気持ちを伝えてもよい」という体験が増えていった。
その結果、彼の中で少しずつ「自分で考え、選び、動く力」が育ち、勉強への向き合い方だけでなく、人との関係や学校生活への姿勢も変化していった。再登校はゴールではなく、自分の人生を自分で歩き始めた一つの通過点である。
この事例は、不登校の背景にあるのが怠けや弱さではなく、人として自然な心の防衛反応であること、そして適切な関わりがあれば、人は再び動き出せることを示している。
不登校解消への2年5カ月の道のり 2025年12月11日
当フォーラムでは現在、通常三カ月から六カ月ほどで不登校は解消している。しかし、一九九五年頃から交流分析を学び始め、以後十数回の研修を受け、二〇〇〇年に当フォーラムを立ち上げ、不登校への対応を始めた当初は、私たちのカウンセリング技法もまだ未熟で、解消までに長期間を要することもあった。今回はその一例であり、当フォーラム対応としては、当時の過去最年長記録である。
振り返れば、長くかかった理由の一つは、彼女が一年五カ月後に参加した「豪州・ペンリス市春ゆめの大自然交流合宿」後、心理的にはほぼ回復していたものの、進学先として当時不登校生枠のあった静岡中央高校を選択し、当該中学校の「ほっとルーム」(別室登校)、市教委の教室、そして当フォーラムに通い続けながら進学していった経緯があったからである。
彼女が中学一年の十月中旬、新聞で当フォーラムを知り、母親と共に訪ねて来た。聞けば、中学の入学式に出席した翌日、肺炎を患い欠席。その後は週二~五日程度の出席が続き、二学期に入った九月は九日、十月は一、二日のみ出席し、ほとんど休んでいるという状況だった。
早速、心理テストを実施した。父性CP(頑固親父性)四、母性NP(お節介おばさん性)〇・五、知性A(コンピューター人間性)三、感性FC(やんちゃ性)四、順応性AC(いい子ぶりっこ性)九四であった。典型的なひきこもり型の不登校である。
極端に高いACから、非常に神経質で几帳面、礼儀正しく、他人に「良い印象」を与えることに専念してきた様子がうかがわれた。一方でFCが極端に低く、感情を内に溜め込み、対人関係では常に強い緊張を抱えていた。面談では「一人でバスに乗れない」と語り、相手の顔を見ることも難しく、友人関係もほとんど築けていなかった。
また、低いCPとAから、「今学校に行かなければならない」「今こうしなければならない」と踏ん張る力が弱く、それが現在の不登校状態を支えているとも判断した。本人や母親には伝えなかったが、極端に低いCP・NP・A・FCと、非常に高いACから、解消には相当な困難が伴うことも予想された。
遠方であることも考慮し、週二日の学習支援とカウンセリングを行いながら、対人関係改善に向けて心理的緊張を緩めることを試みた。同時に、同世代との関わりを重視し、当フォーラムの野外活動や交流合宿への参加を勧めた。
これらの方針は、母親と本人の同意のもと、出席認定のお願いも兼ねて訪問した当該中学校にも共有した。
十月は二日、十一月は八日と出席は順調に増えたが、十二月に入ると体調を崩し欠席が続いた。母親からは「ここ二、三日元気がなく、疲れているようだ。無理をさせているのでは」と心配の声があったが、対応前まで規則正しい生活を長く続けてこなかったため、一定の反動は避けられないと伝えた。
一月末の心理テストでは、父性CPが四から四五へと大きく上昇した。勉強をしなければならない、週二日は通わなければならないという意識が芽生えた結果である。自宅学習も計画化し、学習習慣の定着を優先するため、当初の六カ月間は野外活動への参加を控えた。
五月の連休には初めて野外活動に参加し、浜松市天竜区の相津マリーナでカヤック体験を行った。すると知性Aは三から四〇へ上昇し、学習への主体的な取り組みが見られるようになった。同時に、順応性ACは九四から三八へ低下し、周囲の目を過度に気にしなくなり、自己肯定感の回復がうかがえた。
しかし十二月初め、再度心理テストを行うと、父性CPは四五から二五へ、知性Aは四〇から〇へ低下し、順応性ACは三八から六五へ上昇していた。対人関係の緊張が強まり、再び引きこもり傾向が見られた。
市教委主催のふれあい教室に数回参加したものの、人数の多さに緊張し、積極的になれなかったという。一方で、人数が少なく出席扱いにもなる市教委の教室(当時の適応教室)と、「ほっとルーム」には通うようになっていた。心理テストは、彼女の心の動きを正直に映し出していた。
一月に入ると本人の希望もあり、フォーラムへの通所は再び週三日に増えた。そして三月下旬に実施される「豪州・ペンリス市春ゆめの大自然交流合宿」への参加を決断し、事前研修や英会話研修にも積極的に参加した。4泊5日のこの交流合宿の内容は、本紙「2005年豪州・ペンリス市春ゆめの大自然交 流合宿」に書かれている。
この交流合宿の効果は顕著だった。父性CPは二五から六〇、母性NPは〇・五から四五、知性Aは〇から五〇、感性FCは四から七〇、順応性ACは六五から二七へと変化し、不登校の心理的素因はほぼ消失した。
自分を律する力が育ち、仲間との温かい交流が可能となり、人間関係への緊張は和らぎ、自己肯定感も回復した。合宿を通してできた友人との交流は、その後も手紙のやり取りとして続いていた。
その後の課題は、この状態をいかに定着させるかであった。二年近く学校から離れていた彼女にとって、地域の同級生との再接続は大きな不安を伴った。そこで、昼間の学習支援を夜の塾クラスへ切り替え、同年代の子どもたちとの自然な交流を優先した。
学校側もその趣旨を理解し、引き続き出席認定を行ってくれた。こうして彼女は、塾、市教委の教室、「ほっとルーム」を併用しながら生活を整えていった。
翌年三月、当該中学校から静岡中央高校合格の報告を受けた。私はそこで、彼女の「不登校解消への二年五カ月(実質的には一年半とも言える)の道のり」を締めくくった。
この事例を交流分析の視点から見ると、不登校は「学校に行く意欲の欠如」ではなく、自分の気持ちを抑え続けてきた心が、これ以上無理をしないために発したサインであったことが分かる。
彼女は周囲に合わせ、良い子であろうとする力が非常に強かった。その一方で、自分の感情を表現したり、甘えたりする経験が乏しく、人との関係では常に緊張を抱えていた。安心できる関係性の中で少しずつ自己表現を取り戻すことが、回復の鍵となった。
学習支援やカウンセリングだけでなく、野外活動や交流合宿といった体験を通して、「自分で感じ、選び、行動しても大丈夫だ」という感覚が育まれたことが、不登校解消につながったのである。
不登校の回復とは、学校に戻ることそのものではなく、自分の人生を自分で歩く力を取り戻す過程であることを、この事例は示している。
(表記を「書籍版」としたため、数字が縦書き用の漢数字になっております)
母親に振り回される少女 2025年12月10日
祖母が相談に来られた。中学校3年生になったばかりの孫(女子中学生)の不登校の相談である。聞くと、彼女は2年生の2学期から学校にまったく行っていないという。現在は18歳になる社会人の姉と祖母の3人暮らしで、祖父はすでに他界。母親は8歳年上の男性のもとで暮らしているという。
母親は5人きょうだいの長女で、結婚後も県中部の実家近くに住み、二人の娘をもうけた。しかし、彼女が中学1年の5月、両親は離婚した。それを機に、母親は元夫と距離を取りたいとの思いから、二人の娘を連れて、西部に住む15歳年下の独身の弟を頼り、移り住んだ。
彼女は小児喘息があり、幼稚園時代は欠席が多かったが、小学校はほぼ皆勤だった。ところが、両親の離婚により、中学校に進学したばかりの時期に、遠方の中学校へ転校することになった。それでも1年生は10日ほどの欠席で乗り切れたのは、活発で世話好き、優しい性格ゆえに、すぐ友達ができたからだと、後に母親は他人事のように語った。
ところが夏休みに入ると、母親のもとに「中部の実家近くの店を任せたいから戻ってこないか」という話が舞い込んできた。弟のアパートでの生活に息苦しさを感じていた母親は、再び二人の娘を連れて、中部へ戻る決断をする。後に分かったことだが、そこには男性の存在があった。
せっかく築いた友人関係と楽しい学校生活を手放し、小学校時代の同級生が多く在籍する現在の中学校へ再び転校することに、彼女は強く抵抗したが、その思いは通らなかった。
2学期から、彼女は4月に1カ月だけ通った中学校へ再転校した。時折病欠はあったものの、2年生の1学期までは、本人の言葉を借りれば「普通に」通っていた。
夏休み、姉も同席する場で、母親から「一緒に暮らしたい年上の男性がいる」と打ち明けられた。離婚後に知り合ったその男性には、彼女より10歳年上の息子がおり、こちらに戻ってきてから急速に関係が深まったという。祖母もまた、祖父亡き後に知り合った男性の元へ時折通っており、「血は争えない」と思わざるを得なかったという。
娘たちの反対を押し切り、母親はその男性と連れ子を家に迎え入れた。約2週間の同居生活の末、彼女はどうしてもその男性を受け入れられず、姉とも話し合い、祖母の家へ移る決断をした。そして2学期から、彼女は学校にも行かなくなった。
3年生になっても登校せず、勉強するでもなく家で過ごし、時折仲間たちが集まって騒ぐ様子に困り果てた祖母が、公民館で行われていた当フォーラムの相談会を訪れた。
本人とは翌月、2回目の相談会で会うことになった。10日後、祖母に連れられて来た彼女に、「今日は君との面談だけだから、ゆっくり話していいよ」と伝え、話を聴いた。詳細は個人特定を避けるため割愛するが、上記の経緯は本人の語りに基づくものである。
彼女は「修学旅行には行くつもりだが、学校には行かない」と言い、「母とは一緒に暮らしたいが、あの男性と息子は絶対に嫌だ」と強い口調で訴えた。勉強しようとすると苛立ち、ぬいぐるみに八つ当たりすることもあるという。一方で、美容に関心があり、美容師になりたいという夢を語り、カウンセラーにも興味を示した。勉強の話になると、トーンが下がる。美術と音楽は得意だが、英語と社会 は苦手。勿論、学校に行ってないので、美術部に所属してい「た」、という表現になる。
心理テストの結果は、父性0、母性100、知性10、感性90、順応性90だった。母親思いで優しい反面、母子分離不安が非常に強く、高い感性と低い父性から、怠業的な不登校の側面が見られた。明るさや開放性はあるが、物事への踏ん張りが効かず、自己主張が弱いことが、不登校を長引かせていると分析した。この分析は本人の同意のもと、学校にも共有した。
その数日後、母親とも当フォーラムの事務所で面談した。母親の5人のきょうだいの詳細 な家族構成と、同居しいる男性の家族構成も聞いた。詳細は上記の同様な理由で割愛する。 任せられた店は飲食店だった。男性はその店にも来て親しくなったと言う。彼女を、せめて 高校ぐらいは出させたいと言う。娘たちが自分を求めていることも分かっているが、女の性 に逆らえないと、あからさまに私に言う。私の説得にも、母親になりきれない。
祖母と母親の申し出から、本人の同意の元、4月の下旬から私達の対応が始まった。と言 っても彼女は、週1回しか当フォーラムに来ない。週によっては来ないこともあり、その時 は電話で本人と話し、彼女の状態を探った。
5 月下旬になり、いよいよ変わらない彼女の不登校に母親が意を決し、男の居るアパート を出て(私も説得しがいがあったと思う)、11歳下の妹(祖母の三女)で一人娘が居るシン グルマザーと一緒に、娘たちが暮らす祖母の家に入った。
7 月に入り、彼女は長く休んでいることで周りの視線が大変気になり、まだまだ緊張して しまうようで登校は無理ではあるが、2学期からは登校したい旨の話が、彼女から出てきた。 この機を待っていた私は、この夏休みに行われる長野・八ヶ岳で行われる夏の交流合宿参加を勧め、同時に1学期の修了式の前に2,3日登校することを提案した。彼女は素直に同意した。ちょっと意外だった。
こうなったらいつもの対応が始まる。当該中学校に連絡し、木曜日の放課後に、彼女が指 名する5,6人の級友(さすがに彼女の場合は多い)の同意を取り付け、学校の授業やクラス の様子を話し合う場を設けてもらった。
結果、1学期の終業式の前、翌金曜日から3日間の授業復帰を果たし、長野・八ヶ岳の夏 の交流合宿を本当に楽しく過ごし、満願の笑顔で5,6人の友達を従え、2学期からの再登校 を果たした。母親は、その姿を私に語った。
このケースは、本人の性格や意思の弱さが不登校を生んだのではなく、大人の事情に何度も振り回される中で、「自分の気持ちを押し殺して周囲に合わせる生き方」が身についてしまった結果である。
交流分析の視点で見ると、彼女は「相手を優先する自分」と「本当は納得していない自分」との間で強い葛藤を抱えていた。安心できる居場所が揺らぐたびに、心のエネルギーは消耗し、学校へ向かう力を失っていったのである。
回復の転機は、母親の行動が変わり、生活環境が安定したこと、そして交流合宿などを通じて「自分のままで人とつながっていい」という体験を重ねられたことにあった。不登校の解消とは、学校に行けるようになることではなく、自分の感情と行動を自分で選べる力を取り戻す過程なのだと、改めて教えられた事例である。
交流合宿中の思い 2025年12月9日
12月22~24日2泊3日、遠州・森町のコテージアクティーを拠点に行われた「WINTERカヌー自然交流合宿」の時のことである。
スタッフ3名と学生リーダー6名に、参加者は大人4名、中学生8名、小学生6名に、学生4名が次期リーダーの研修として参加、計22名。うち、不登校の子どもは5名参加した。また、本紙「そうずらか、そうずらよ」に登場し、その後も交流が続いていた三宅島の噴火で下田に避難し、避難勧告解除後も下田に定住している家族3名も参加してくれた。今回は3名のテレビ局の取材撮影クルーも加わり、同行取材を受けた。
日程
22日
9時半、藤枝・当フォーラム事務局をマイクロバスで出発。藤枝、島田、金谷、掛川各駅で参加者を乗せる。
12時、アクティー森に到着。
「はじめましての会」で始まり、天竜杉板製手作りカヌー作り、たき火料理、お風呂。
「三宅島の人達のお話を聞く会」
「自分を大いに語ろう会」
22時、参加者就寝後。
リーダー・スタッフ会議(参加者の大人と学生も加わる)で終える。
23日
6時、起床で朝食作り、朝の会、朝食。
その後2班に分かれて、A班カヌー体験、B班自然散策。
昼食作り・昼食の後、A班草木染又は手すき和紙体験、B班カヌー体験。ナベ料理、藤枝茶入り手打ちそばの夕食、お風呂、キャンドルサービス。
「夜空の観測会」。
その後自然に再び「自分を大いに語ろう会」。前日に続き不登校の思いを語る場面も出る。22時、参加者就寝後、
リーダー・スタッフ会議(前日と同様参加者の大人と学生も入り、子ども達の話や子育てで盛り上がり24時を超してしまう)で終える。
24日
6時、起床で、朝食・昼食(おにぎり)作り、朝の会、朝食。
古代の森・フィールドアスレティック・ネイチャーゲーム。
昼食、感想書きで、閉会式。
14時、解散となる。
当時の不登校だった小学5年生の女子児童(本紙「ほぼ4年振りの学校」に登場)と、女子学生リーダーの感想文を紹介したい。交流合宿中の子どもやリーダーの心の中が見て取れる。
ちなみに、参加した不登校だった5名の子ども達全員、その後約3カ月から7カ月で当該学校に復帰した。()内は、一部を除いて分かりやすいように私が書き加えた。
ごはん
私も夕食をいっしょに食べました。おそばはちょ―――→うまかったです。全然、こながのこっていたりしていませんでした。もっと食べたかったです。
それとおなべ、おなべもちょ―――→うまかったです。あんまりすきではない大こんもあじがしみこんでておいしいかったです。おかわりしたかったけれど、何かはずかしくてできませんでした。
おつけものはやっぱり自分の家でつくった方(おばあ🄫がつくたの)がおいしかったです。あじがうすかったっていうか。でもおいしかったです。
みんなが夕食を作っている間、リーダーの〇〇🄫とななみ🄫(カヌー指導者の長女の園児)といっしょに遊んでいました。まくらなげなどしていて。でも、とちゅうで〇〇🄫が(昼間の活動で疲れたのかな)ねてしまいました。どーしよーと思ったけれど、カルタやひこうきをなげたり、いろんなことをして楽しかったです。また、なな🄫(ななみ🄫のこと)と遊びたいです。
草木染め
私のハンカチのもようは“ミッキー”で―→す。あのかごの中にはいっていた形の中では、やっぱり“ミッキー”がいちばんかわいいかな→って思ったからです。それと星。色はアカネ(色)です。あそこにあった種るいの中では、アカネ(色)がいちばんわかい子がもっているいろかな→っと思ったからです。
ハンカチに色をつける時はとても大変でした。ボールの中にハンカチをいれておはしで5分~6分くらいひっくりかえしながらゆすっていなければならなかったからです。それと何んと2回も。つかれた→ってかんじでした。出来上がった時は「けっこうかわいいじゃん。」「でもちょっと静かすぎるかなあ」と思いました。
クリスマス会
クリスマス会では、私はコップに水をいれてならすがっきをえんそうしました。私は“ド”の音をやりました。なぜかというとそこが一番かんたんな所だったからです。3回ぐらいしかならす所もなかったです。まちがえずにひけてよかったな→と思いました。歌もたのしかたです。
今回は都合により、2日目から参加させてもらった。どんな子達がいるのかな、とワクワクしながら朝、合流。皆は、1日一緒に過ごしているから仲良くなってるんだろうな、と少し肩を落としつつ、でも頑張って仲間に入ろう、と心に誓う。
着いて早々カレーを作った。大量に作るのは久しぶりで、給食のおばちゃんになった気分。初対面のEちゃん(学生リーダー)ともカレーのおかげで打ち解けた。皆が「おいしい!」と言って食べてくれるのを見ると、得意な気分になる。私一人で作ったんじゃないのにね・・・
染め物は初めてだったので、とてもおもしろかった。Yちゃん(学生リーダー)が来てくれたことが何より一番嬉しかった。約束守ってくれてありがとう!模様の入れ方が皆、個性があっておもしろかった。
クリスマス会の為のグラス音楽は皆、上手で少し練習しただけで、できてしまった。皆頭いい!皆で一つの曲を演奏することほど楽しいことはない!音楽をやっている(大学で音楽専攻)私としては幸せだった。私も早く音楽を教えたいな。
クリスマス会も、すごく感動した。私は夏~秋にかけていろいろ(個人的に)あったので(そうだね、相談を受けたから分かってるよ)、泣いてしまいそうだった。必死で涙をこらえた。YちゃんとМちゃん(学生リーダー)ありがとう。
星の観察は、これまたすごかった。私は星を眺めることが大好きだから、とても幸せだった。星は神秘的。自分の昔から好きなことに、稼いだお金をつぎ込むМさん(仕事があるため、この時だけ来てくれた「夜空の観測会」を指導してくれた参加者家族のお父さん、自宅の屋上にプラネタリウムを造った人)はすごいと思う。家族も幸せだね。男のロマンだよ。私も女のロマンに向かって頑張ろうかな。
ネイチャーゲームの中のカメラ遊び(写真家役とカメラ役の二人組で、写真家役は目を閉じたカメラ役を連れ、自然の中の美しいものを探し、見つけたら合図して、カメラ役が目を開け、3秒でそれを心に焼き付ける。元に戻って、みんなの前でカメラ役がどんなふうに美しかったか説明する)はすごく新鮮でおもしろかった。ティピーテント(インディアンテント)も初めてだったし、私の中で初めての事ばかりで・・・。だから、こんな日記風の感想になってしまった。スタッフなのに、いろんなことに目を輝かせてしまった。YちゃんやМさん(今度は先ほどのМさんの奥さん)に料理のことを教えて頂き、おにぎりも上手に作れるようになり、私にとってプラスになることだけだった。また、Yちゃんとも仲良くなり、連絡をくれる仲になった(私だけそう思ってっるかも)のも嬉しい。ありがとう。
今回は御飯の支度とかは適当に自然に手の空いた大人達が主にやってしまったけど、活動を通して、皆が仲良くなれたのは、すごくよかった。知らない人が集まって生活すること、話さずにはいられないから、いつの間にか仲良くなっていくものだね。でも、親がいたら、もしくは仲のいい子と参加したら、その人とばっかり一緒にいて、せっかくの機会なのに、友達が増やすことができなくなってしまう。Yちゃんも、よく思い切って参加してくれたと思う。きっと、成長したよ。また、こういう機会があったら、大勢の人が参加してほしいと思う。親や友達に言えないこと、聞きたいこと、私達スタッフは皆、話好きだから、親身になって話聞くし、いろいろ話すことができるよ。やっぱり、お互い助け合って生きていかなくちゃ、いい人生は歩けないと思う。必ず周りの誰かに支えてもらって自分がいる、そう痛感した合宿でした。
P.S.先生、日記になっちゃった💦文末やばい、言い方あったら変えて下さい!by〇〇〇