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不登校の女子中学生の心の吐露 2025年12月8日

 中学2年生の彼女の家族は、父親44歳で会社員。母親は40歳、彼女が小学校1年生になるまでは会社に勤めていた。歳が離れて、小学校3年生の妹と、同じく1年生の弟がいる。

彼女は幼稚園を3年間過ごして小学校に上がったものの、小学校4年生の2学期から不登校になる。その時、妹は年中組、弟は2歳だった。

それでも、5年生の1学期は出席したものの、友達が欲しく声を掛けたら無視され、2学期は全欠席。3学期と6年生は、保健室登校。

5,6年の担任は、怖い女性教諭だったと言う。「〇〇(彼女の名前)ちゃんは、(学校に)来なくていい」と言われた。

中学校に上がり、5年生の時からの友達ひとりが同じクラスになり、4月は1日、5月は3日だけ登校。6月と7月は共に3日間だけ別室登校した。その後も2学期は3日別室登校したが、3学期からは2年生になっても完全に不登校になってしまった。

そして記録を見ると、7月13日、学校からの紹介で母親が相談に来られた。上記の子どもの話になると、涙を流された。育児の失敗と母親失格に苛まれていた。

途中から車の中で待機していた彼女が来られ、早速心理テストを採った。父性(頑固親父性)82(100点中、以下同じ)、母性(お節介おばさん性)34、知性(コンピューター人間性)75、感性(やんちゃ性)33、順応性(いい子ぶりっこ性)94だった。

これを、高い信念や理想を持っていて、それを曲げるのが嫌。冷静な判断と適切な方法を取ることから周りから高く評価される。しかし、自分の考えた通りにいかないと、非常に不満になる。心の中で「理想」と「不満」が喧嘩をしてしまう。その上、優しく、いつも他人のことを思いやり、みんなと協調的にやっていこうという気持ちがとても強い。不満があっても他人に八つ当たりしない。他人を責める位なら自分を非難する。気が付いたら落ち込んだり、ストレス潰瘍になっている、と分析した。  

時には、心ゆくまで自分の心を開放してあげよう。母性と感性の長所を活かしてストレスを解消しよう。人の目を気にしないで、自分の気持ちに素直になっていい、とアドバイスした。

すると3日後、彼女はフォーラムに来て、自分の気持ちを吐露した。以下は、本人の同意の元、録音したものを本人と一緒に書き起こしたものである。

人と話そうと思うと、緊張する。仲間に入りたくても、「嫌われるかもしれない」「迷惑なのかも」と思って、結局ひとりになる。誰かと話をしたり、仲間に入ると、「迷惑な存在」ではないかと思ってしまう。

かれこれ幼稚園くらいからだと思う。上手く話そうと思って弱気になったり、苦しくなったりする。

今まではひとりでいてもよかったけど、だんだんそれが辛くなってきた。
自分ひとりでなんとかできないこともあるし、どうしていいか分からない。
自分が全部悪いんだ。周りは何も悪くない。自分といてもつまらないだろう。
すぐに「非」をつくって、何でも溜め込んでしまう。そんな弱い自分が情けなくて涙が出た。

もうひとりで苦しみたくない。自分に「非」をつくっていきていきたくないから、少しでも分かってほしいです。内気になってしまった私のことを。
(まさに分析した通りだった。)

前はよかった。1週間に1回あるかないかの“嫌なこと”だけでいかずに1日に必ず1回くらい“嫌だ”と思うことがあった。

1年生の頃がよすぎて今が不満になっているかもしれない。
だって、熱血で真剣に人の気持ちについて考えてくれる先生とか、考えるよりも行動しようっている団結ある女子とか、考えることがバラバラだけど、人一倍元気な男子とかがいなくなって・・・どうしろっていうのさ・・・まるで太陽のように明るくて毎日笑っていたのに・・・

太陽がなくなっちゃったから・・・心から笑えなくなっちゃった。
先生の授業がへんだろうと、男子がへんだろうと、バカなことしようと、嫌なことしようと・・・15HRだから許せたのに。15HRだったら3年間ずっと同じ組でもよかった。なんで休んでいたんだろうと。

時間を取り戻したいとも思った。でも、・・・それも終わった前には戻れないから、太陽を探すんだ。

でも、また太陽を見つけるなんて、元気がない。だから、昔に戻りたいとか、休みたいとか、“嫌だ”とか言うんだ・・・
(たった10日の15HR。そんなによかったのに、本人も言うように、なぜ?)

それにまだ前にはチャンスがあった。自分を変えられるチャンスが。それで前より少し変われた。だから、次も・・・というわけにはいかなかった。

もうみんなは前の子たちと同じようにしている。
前の15HRで友達だと思っていた子とも全員別れてしまった。もう太陽を探すどころか、崖に突き落とされた感じだった。

もう変えられないし、帰れない。だから、どうすればいいんだって考えたって、変えられない。じゃあ何すればいいんだよ。頑張ったよ、最初は。でも・・・(中1の3学期から)7カ月くらい経ってからもう無理なんだって分かった、もう・・・あまりにも辛いのに。なのに、一つも変えられないって。心の底から笑えないし、前と違う環境とか、前と違う・・・から?とにかくもう無理なんだ。

小学生のときは“先生が怖い”って嫌になってたけど、母さんが笑ってくれるなら、保健室でもいいなって思ってた。でも、中学生になったら・・・母さんというよりも”自分“のことで精いっぱいで・・・「目標」もなかった。

前にやってたミニ目標は、「5日行ったら2日休み」って感じだった。でも、もう「2,3日行けばいい方だ」って感じになってきた。だって、どんなに頑張っても、また元に戻っていくんだから。
(父性を成長させるカウンセリングで、5日学校に行く「ミニ目標」は達成できる。)

よく自分で理想の世界を創り上げる。特に15HRのような世界を、楽しかった思い出を忘れたくないから。そして、最近勉強とか考えている暇もなく、“学校”について考えてみる。簡単なことかもしれない。「〇〇(彼女の名前)」にとっては、生きるか死ぬかの判断くらい重要なんだ。行くか行かなかというより、行けるか行けないかという感じに。

夢に15HRのことが出てきたり、深く考えたりいろんなことしていると、「行けない」ってなっちゃうし、ちょっと学校に行ってみたり、勇気をもらったりしていると、「行ける」ってなる。

前のような「行く」っていう自信がなくなったのは、行けた思い出とか、大好きだったものとかが、どこかに飛んで行ってしまったから、辛いんだ。病気とかじゃあないのに、苦しいんだ、心の底から。・・・自由にどこかへ飛んでいけたら、直るかのか。南の島へ飛んでいけたら、直るのか。直せないんだ。昔から幼稚園でも静かにしてた方だったし、家でも強がっているだけの弱い人間だから、人一倍周りを気にするようになった。もう変えるには高校か社会しかない・・・誰か薬を買ってきてって思っちゃう・・・・
(そうだね、そんなに辛いんだね。でも、こんなに気持ちを吐露できたことで成長したよ。)

 約5か月後に彼女は当該中学校に再登校を果たした。

虐待からの立ち直り 2025年12月7日

相談は、彼が中学2年生の10月上旬に入った。来所したのは、彼と母親である。主訴は、不登校、学力不振、過食だった。私はまず「過食」という言葉に反応した。確かに、中学2年生にしては大柄な体格で、体重は90kgあるという。

詳しく話を聞いた。家族構成は、共に40歳で会社員の両親と、高校1年生の姉の4人家族である。父親はうつ病を発症し、3年前からこれまでに2回入院している。2回目の入院は、前年4月から4か月間に及んだ。その影響もあってか、感情の起伏が激しく、子どもたちに暴力を振るうことがあった。3年前には姉の頭を殴って気絶させたことがあり、それ以降、児童相談所も介入している。

当年1月からは、子どもたちを守るため、父親には別居してもらっているという。母親について彼は、「働き者で、一心に突き進む人」「褒めるときと怒るときの差が極端」と語った。悪いことをしたとき、母親が怒らないと、かえって後が怖くなり、寒気がすると言う。姉についても、「普段は優しいが、嫌味を言うときはすごい」と表現した。家庭内の緊張と不和の中で、姉はこれまでに2度、自殺未遂(薬の多飲)を起こしている。彼の過食の背景が、ここではっきりと見えてきた。

父親の2回目の退院から2か月後、彼が中学1年生の9月頃から不登校が始まった。それでも当初は月に3~4日は登校していたが、12月以降は完全に欠席しているという。

早速心理テストを実施したところ、父性33、母性12、知性24、感性70、順応性62という結果が出た(各100点満点)。全体として気分の波が大きく、やや情緒不安定なタイプと捉えた。不登校が長期化している影響もあり、感性が非常に高い。子どもっぽさが強く、自己中心的で衝動的な言動に走りやすい一方、現実認識はやや甘く、口達者ではあるが、冷静さや論理性には欠ける。同年代の子どもと話す際に気後れしやすい。他者を優先できる気配りはあるが、神経質で周囲の目を過度に気にし、母子分離不安も重なって不登校に至っていると分析した。

彼自身は「学習が追いつけば登校したい」という希望を持っていた。そこで、当該中学校の出席認定を受けながら(申請は当フォーラムが行った)学習支援を行い、週3回のカウンセリング、月1回の野外活動、翌春に予定されている4泊5日のオーストラリア交流合宿を通して、精神的成長を促し、自信の回復と対人関係の改善を図る提案を行った。また、日常生活では体重管理のため、毎日30分の運動と食生活の改善もお願いした。

本人と母親の同意を得て、学校および児童相談所とも連携し、情報を共有しながら支援を開始した。
1か月後、早くも変化が現れた。同じく不登校の中学生4名と共に学習や活動に参加する中で緊張が和らぎ、彼本来の優しさや思いやりが表れ始めた。その結果、母性の値は12から74へと大きく上昇した。

しかし、その分析から5日後、彼は初めて連絡もなく2日間、フォーラムを欠席した。不審に思い、2日目の夜に自宅へ電話をすると、母親から「明日、本人を連れて行きます」と言われた。母親は、この2日間の欠席を知らなかったという。

翌日、本人から事情を聞いた。

1 日目、フォーラムの教室まで来るも忘れ物に気づき、引き返した。9時頃の電車に乗り、〇〇駅に着き、自宅に帰った。そう、彼は遠方からフォーラムに通っていた。10 時頃から11 時まで自宅にいて、昼食を食べた。11時に自転車で〇〇公園(自宅から約6kmほど)に行き、遊んだ。15時頃、母親の会社に顔を出す。その後、自転車でその会社から自宅までの間を乗りまわり、18時半に帰宅。母親はいつも19時頃帰宅すると言う。

2 日目、7時半、自転車で自宅を出て最寄りの駅に行くも気が向かず、1kmほどにある公 園等で時間をつぶす。その後、自転車で10kmほど先にある江戸時代の有名な寺に行き、 そこで弁当を食べる。午後は自宅近くの公民館の図書館で、マンガ(彼はその時「本」言ったが、後に打ち明けた)を読む。17時頃、母親の会社に寄る。その後、帰宅。高い感性と低い父性・知性が示す通りである。

2 日後、当該中学校に報告に伺い、さらに3日後先にFAXで報告書を送り、その9日後 児童相談所に伺った。そこで、心理判定員の方に彼の分析を聞いたが、詳細はその性質上割愛させて頂く。ただ1点、彼がうそをつくのは、自分を守る抵抗だと教えられた。その後は彼はフォーラムをサボることなく、カウンセリングと学習、野外活動をこなしていった。

1月なると、学習面で一部の教科が追い付いてきたことから、3日間ほど学校に登校した。
2月も同様だったが、中旬の2日間行われた期末試験は、1日目は登校したが、受けなかった。理由は後に聞いた。

3 月になってからは、追い付いた教科がある火・金曜日に登校し授業を受けた。2日ほど、近くの公民館の図書館で勉強するとの連絡があり、フォーラムを欠席した。ところが中旬またしても2日連続でフォーラムに連絡もせず、市内を自転車で走り回り、それが母親に知れ、夜中2時間説教されたと言う。

その翌日彼がフォーラムの教室に来た時、学習をやめて彼の話をじっくり聴いた。学習について、まず英語は1年生でやり始めた時からつまずきを感じたこと。どのように英単語を覚えたらいいのか分からず、ドンドン分からなくなったこと。数学は、正負の加減乗除は分かったが、文字式と一次関数からつまずいたこと。先月2月の期末試験は、1時間目の数学の一次関数の問題を見て0点になりそうで受けなかったこと。国語は漢字以外はОKで、社会もОK。理科は、化学式が出てき始めた時から分からなくなったこと、など語った。

次に家族について語った。冒頭述べたことのいくつかは、この時語られた。ほかには、小 学生の時に父親と釣りに行って、取り逃がしたらイライラされたこと。父親から姉と比較さ れ、頭が悪い、のろまだとよく言われたことなど。いい思い出は語らなかった。

そんなことを語るうちに、突然彼は「もう僕、新学期から学校に行きます!」と宣言して きた。私のカウンセリングでもう心理的には学校に行ける状態になってきたと言われ、この 2 日間、フォーラムを欠席しながら考えていたと言う。そしてそれが、昨夜の2時間渡る母親の説教で決意したと言う。そして、「A4のコピー用紙1枚貰います」と言ってコピー用 紙を取りに行き、その場で数日後に迫った春休みの学習計画と、登校し始める新学期以降の夜のフォーラムでの月曜日から土曜日までの1週間の学習計画を書き始め、覚悟を見せるために、最後に今日の日付と自筆で名前を書き、私から朱肉を借り、右手人差し指で母印を押して私に差し出した。ここにその誓約書がある。

そして春休みの最終盤、4月1日から5日にかけて行われたオーストラリア・ペンリス市での交流合宿に参加した。異国の地で、同世代の仲間たち(現地の中学生バディを含む)と生活を共にし、多様な活動を経験する中で、彼は大きく成長した。コミュニケーション能力と自信を身につけ、帰国翌日から当該中学校への登校を再開したのである。

交流分析の視点で見ると、彼は長年にわたり、家庭内で強い緊張と恐怖の中に置かれ、「叱られないように振る舞う」「本音を隠してその場をしのぐ」ことを身につけてきた子どもだったと言える。過食や不登校、嘘といった行動は、怠けや反抗ではなく、心を守るための精一杯の適応だった。

支援の過程で重要だったのは、彼が「評価される存在」ではなく、「そのまま受け止められる存在」として人と関われる経験を重ねたことである。安心できる関係の中で、彼の中の優しさや思いやりが自然に育ち、自分で考え、決断する力が戻っていった。

彼は他者の期待や恐れに振り回される状態から、自分の気持ちを基準に行動できる状態へと移行していった。その変化が、学習への取り組み、登校の再開、そして将来への主体的な計画へとつながったのである。

いじめからの自立 2025年12月6日

当時彼が受けたいじめの本質は、妬みであった。

父親が社長を務める会社は曾祖父が興したもので、婿養子である父親は三代目にあたる。二代目として社長を務めた祖父(当時は会長)は、地元経済界の重鎮であり、家庭は裕福だった。彼自身も端正な顔立ちをしていた。そうした背景が妬みの対象となり、中学三年時のクラス替えを機に仲間外れのいじめを受け、不登校となった。

祖父の紹介で、五月初め、母親とともに相談に訪れた。
心理テストを実施すると、父性的な強さは低く、感受性も控えめである一方、思考力は非常に高かった。周囲の目を気にしやすく、自己肯定感は低いが、内向的に引きこもるタイプの不登校ではない。いじめに立ち向かうだけの精神的な強さが十分に育っておらず、受け止めきれずに傷ついた結果が、当時の状態であった。仲間外れという体験は、幼少期に兄から邪魔者扱いされた経験とも重なっていた。

家族構成は、母方の祖父母、両親、三歳上の姉と四歳上の兄である。母親も家業の会社に勤めていた。
彼は「高校には進学したい」と強く希望していたため、当初は週三日、一日三時間、当該中学校の出席認定を受けながら当フォーラムに通い、その都度カウンセリングを行った。当時フォーラムには、彼のほかにも四人の中学生が在籍していた。

一か月ほどで、変化が表れ始めた。精神的な支えとなる力がほぼ倍近くに伸び、心の強さが少しずつ育ってきた。思いやりの面も高まり、他校の中学生との交流が広がったことで、集団への適応力が大きく向上した。この点は、肯定的な変化として当該中学校にも報告した。

七月下旬には、長野で行われた二泊三日の夏の交流合宿に参加し、三十名ほどの小・中・高校生と多様な活動を体験した。また、美術が得意であった彼は、九月初めに行われたフォーラムのイベントで、ポスターやチケットの図案制作を引き受け、周囲から大きな称賛を受けた。それを機に、自分の感情を人前で素直に表現できるようになっていった。

九月からは週五日フォーラムに通うようになり、十月には、得意分野をさらに伸ばすため、紹介した絵画教室で本格的にデッサンを学び始めた。

カウンセリングの継続により、精神的な粘り強さが育ち、感情の表現も自然になり、行動面でも活発さが加わっていった。

進学については、美術の才能を生かせる高校も検討したが、欠席日数の関係で断念し、不登校生枠のある高校を受験することを決めた。その影響もあり、十二月からは当該中学校への登校も再開した。ただし、受験への不安や、復帰後も残る同級生からの関わりにより、時折登校できない日もあったが、その都度フォーラムで学習を続け、出席認定を受けた。

受験では、学科試験に加え、不登校生枠特有の厳しい面接を乗り越え、わずか十名の合格枠に入った。
しかし、期待して通い始めた高校で、六月、新たないじめを受けることになる。教師の目を盗んで行われる陰湿な行為により、中学時代の体験がよみがえり、再び授業に出られなくなった。

六月下旬、本人を交え、両親、学校、そして私も参加して話し合いが行われた。誰もが退学を望まなかったが、母親の過干渉の影響もあり、彼の気持ちは大きく揺れ、決断できない状態だった。五日間の熟考期間を経て、最終判断を私に委ねられ、通信制高校への転校と、フォーラムによる継続支援を選択した。

その後も絵画教室に通い、フォーラムではレポート学習を進め、着実に単位を取得した。作品展では高い評価を受け、国内外の交流合宿や野外活動にも積極的に参加した。多様な人との関わりの中で、自分を守り、表現する力がさらに育っていった。

高校三年の秋、自身の作品を携えて父親と同じ美術大学の推薦試験に挑み、見事合格。大学で制作した卒業作品は最優秀賞を受賞した。後日、彼はその作品の写真を私に送ってくれた。色彩豊かにデザインされたパッケージ作品であった。

現在、彼は名古屋のデザイン事務所で働いていると聞いている。

「頭の良さ」や「才能」があっても、心を支える力が育っていなければ、いじめに深く傷ついてしまう。彼は理性的に考える力は高かったが、自分を守り、感情を外に出す力が十分ではなかった。そのため、他者からの攻撃をまともに受け止めてしまったのである。

しかし、安心できる人間関係の中で、自分の気持ちを表現し、評価される経験を重ねることで、心のバランスは少しずつ整っていった。特に、仲間との交流や創作活動を通して、「自分はここにいていい」という感覚を取り戻したことが、回復と自立につながった。

いじめから立ち直る過程とは、単に強くなることではなく、自分の感情を信じ、必要な時に頼れる力を育てる過程なのだと言える。

小1問題の一場面 2025年12月5日

小学校の入学式(金曜日)の後、隣の席になった男の子が「友達になってね」と声を掛けてくれた。三日後の月曜日、「友達をたくさん作ってくるね!」と、ピカピカの一年生の彼は楽しそうに出かけて行った。

ところが、翌火曜日から学校に行くのを嫌がり、休みがちになってしまった。一週間ほど経ってもその状態は続いた。話を聞くと、「お母さんが一緒に学校に来てくれれば行く」と言う。母親は会社に相談し、休暇の手続きを取った。(実際には、休暇後も母親同行は改善されず、休職扱いにしてもらった。)

彼は、会社員の父親と、四歳上の姉と暮らしている。

翌日、確かに母親が一緒に行けば、彼は登校できた。ところが、彼が校門に入ったのを見届けて母親が帰ろうとすると、彼も慌てて校門から戻り、母親についてきてしまう。仕方なく母親は彼と一緒に教室に入り、後ろで立って様子をうかがっていた。その姿を見た担任の先生は、会議室から椅子を持ってきた。母親はそれに座り、授業の様子を見守った。そんな日々が五月の連休まで続いた。

連休中、両親が学校の話を持ち出すと、彼は拒否した。連休明けの日も、彼は学校に行けなかった。担任の先生からの電話にも出なかった。

翌々日の朝、母親が彼に声を掛けると、姉から「お母さんは、子どもの気持ちが分かっていない」と言われた。母親は驚いたが、それ以上聞いても姉は何も言わなかった。彼はそんな母親の様子を見て、無言のまま母親と一緒に登校した。

五月下旬、翌日の運動会に向けて、両親は担任の先生と話し合った。運動会当日の朝、彼は参加を嫌がったが、特別支援の先生が付き添ってくれたことで参加できた。母親は応援席の後ろに立って見ていたが、彼は母親がいなくならないか不安そうに、何度も後ろを振り返っていた。昼食は母親と一緒に教室で、みんなと食べた。

数日後、朝は登校班で登校した。昼休みには友達と外に遊びに行き、休み時間には一人でトイレにも行けた。朝顔の水やりにも行けるようになった。

六月上旬のある朝、彼は毎日提出物を先生の机に出していたが、その日は「提出物がなかったよ」と言われた。彼はなぜか、「提出物を出す場所が分からなかったから出さなかった」と主張した。母親はそのことが気になった。その日の昼休みには、六年生のペアと外に遊びに行けたという。

翌朝、雨の中、途中で立ち止まるなどして行き渋り、普段は十分ほどで着く学校に、一時間以上かけて登校した。学校に着いても校門に入れずにいると、担任の先生が迎えに来てくれた。

その時、担任の先生が躊躇なく「何が嫌で学校に来られないの?」と尋ねると、彼は「授業が嫌だ。分からない」と即答した。「じゃあ、座っているだけでもいいよ」と声を掛けると、彼はすんなり教室に入っていった。

数日後も行き渋りはあったが、母親と一緒なら登校できた。三時間目の国語の授業には、市教委の視察が入った。先生の声かけがいつもと違うことに、母親は驚いた。「支度が早いね」「発表する人、よく見てるね」「静かに待ててえらいね」。優しい口調と笑顔のある、落ち着いた授業だった。
翌日、担任の先生、学年主任、教頭先生も加わり、話し合いの時間が設けられた。母親は、気になっている点の一部を伝えた。

一年生は、鉛筆や筆箱、消しゴム、道具箱をよく落とすが、そのたびに「うるさい!落とすな!」と怒鳴られることがある。

理解が少しゆっくりな子について、体育の時間に「〇〇くんは分からない子だから、周りの子が教えてあげて」と、本人の前で言われたこともあった。同じく体育の時間、校庭で体育座りをしている際、半分ほどの子が砂を触っていると、「授業中だ!遊ぶ時間じゃない!遊びたい人は幼稚園か保育園に戻りなさい!」と叫んだこともあった。

授業中に騒がしくなると、「うるさい!黙れ!」「うるさい!今しゃべっている人、外に出なさい!」と怒鳴ることもあった。そのたびに子どもたちは萎縮し、身体を小さくするという。
次第に状況が見えてきた。

給食後、吐いてしまった子がいて、先生は迅速に対応していた。ところが翌週、別の子が給食後に吐いてしまった際、「すぐ水道で服を洗ってきなさい」と怒り口調で言い、その子が水道に行った後、「ほんとに、あいつ、吐くまで食べやがって!」と、先週吐いてしまった子の前でしばらく怒っていた。

給食の片付けの際、給食を残す場合には「残してもいいですか?」と先生に聞く決まりだが、怒られるのを怖がって聞けない子もいた。

このようなことは、まだまだたくさんあり、書き出せばきりがない。「小一問題」の現場の一端を垣間見た。

幼稚園や保育園では「遊び」が中心で、怒鳴られる経験もほとんどなかった子どもたちが、小学校に上がると「学習」が始まる。理解や作業の個人差が表れ、集団授業や集団行動に支障が出ることもある。そうした中で、こうした出来事が起こる。ただ、彼らはまだ小学校に上がったばかりの子どもたちである。

母親は、「起こる前に『静かにするよ』というワンクッションの言葉と、怒った後に、何がいけなかったのかを伝えるフォローがほしい」と語った。私は、先生方の心の余裕の問題でもあると感じた。もちろん、彼には母子分離不安もあるが、それだけではない。

前述の通り、話し合いですべてを伝えたわけではないが、話し合い後、担任の先生は外で待っていた彼に謝罪してくれた。その後、彼は登校班で登校できる日もあったが、母親の同行は手放せなかった。一方で、担任の先生が出張で別の先生になると、母親から離れて授業に参加できることもあった。

心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。その後も、彼にはこの影響が長く続いた。

実はこの話は、先生方との話し合いから四か月後、上の姉のことで相談を受けた際に、母親から聞いたものである。

スマホゲームに狂った高校生の立ち直り 2025年11月30日

相談が入ったのは、彼が高校二年生の九月下旬だった。地元では進学校として二番手に位置づけられる高校に通う生徒である。主訴は、学業不振、生活リズムの乱れ、そして学習の遅れだった。端的に言えば、スマートフォンのゲームに没頭し、勉強どころではなくなっていた。

父親とはほとんど会話がなく、意識的に避けている様子だった。母親には小言を言われるため、怒鳴り返す一方で、「死にたい」などと弱気な言葉を口にすることもあった。四歳上の姉とも、ほとんど関わりを持っていなかった。

翌日、彼とじっくり話をした。地元の進学校に進んだ以上、大学へ進学したいという気持ちは本人の中に確かにあった。しかし、このままの生活では、それが夢物語に終わることも本人なりに理解していた。
心理テスト(百点満点)では、父性六十三(自己主張はある)、母性二十(他者への配慮が乏しい)、知性十三(自分を客観視しにくい)、感性は百(感情の赴くまま)、順応性三十二(周囲をあまり気にしない)という結果が出た。生活の「怠業」ぶりが、そのまま数値に表れていた。特に、知性と感性のバランスは父親と正反対であった。

知性が低く、自分を客観的に見つめることが苦手な彼であることを承知の上で、私はあえて次の課題を出した。

日々の生活を振り返り、「勉強について」「人としての行動について」「親に対して」「スマホの使い方」の四項目について、自分の決意を誓約書の形で書いてくるよう伝えたのである。

二日後、彼は一通の誓約書を持って現れた。
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山下先生へ 〇〇より
誓約書
100 もありませんでした
勉強について
① 少しずつでも集中出来る時間を延ばす
② 勉強に集中する
③ すぐに手の届く所にメモを置く
④ 積極的に授業に取り込む
⑤ 消しカスを集めて捨てる
⑥ プリントをファイルに入れる習慣を作る
⑦ プリントを貰ったらすぐに名前をかく
⑧ 片付けをして、万全な状態で勉強をする
⑨ 終わったら後の片付けまで行う
⑩ 集中して授業に臨む
⑪ 話を聞く体制を作る
⑫ 勉強の行える状態を作ってから勉強を行う

人として
① 日頃から整理整頓を心掛ける
② ファイルの中のプリントを週に1回いるかいらないか分ける
③ スケジュールなどをメモに取る習慣を作る
④ 夏休みの課題などを計画して行う
⑤ 1つ1つの事をより丁寧に行う
⑥ 自分に自信をもって挨拶をする
⑦ 嫌なものでも作ってくれたことに感謝して食べる
⑧ 「いってきます」「ただいま」を挨拶と同じように習慣にする
⑨ 計画性をもって生活をする
⑩ より集中して人の話を聞く
⑪ 夕食を食べたらダラダラしないで、次の行動に移す
⑫ 面倒くさいことを最初にやってしまう
⑬ 自立をして自分でできることは自分で行う
⑭ 散らかさないで置く所を決める
⑮ 1つ1つ丁寧に書いていく
⑯ 余裕のある夜は学校の支度をする
⑰ バックを転がさないでしっかり立てて置く
⑱ 1つ1つを確認して、横着しないで支度する
⑲ トイレでもお風呂でも使ったらもとの形に戻す
⑳ 毎週月曜日を掃除の日とする
21 朝は一発で起きて朝に飯を食べる
22 思ったらすぐに行動に移す
23 常に周りに気を配る
24 玄関に1足だけ靴を置いてあとは靴箱に入れる
25 全ての事を良い方向にとらえていく
26 箸の止まる時間をなくすようにする
27 エアコンやテレビなどを使ったらスイッチを切ってから部屋を出る
28 電話をする時止まって周りの人に迷惑をかけないようにする
29 どんな提出物でもきれいに書く

親に関わる
① ユニホームなど自分で汚した物は自分で洗う
② 自分が使った物は自分で片付ける
③ 家に帰ったらすぐにお弁当を出して台所へ持って行く
④ 靴下など脱いだらひっくり返して置く
⑤ 自分の出したゴミは、自分で片付ける
⑥ 服を脱いだら洗う場所に入れる
⑦ 自分の使う物は自分で用意する
⑧ バインダーを見やすいように自分で作り、プリントを整理する
⑨ 毎日バックの中を確認する
⑩ 自分が食べる物は、自分で配膳して、片付ける
⑪ 洗面台を使って水びたしにさせてしまったら、タオルで拭いたりしてきれいな状態にす る
⑫ 自分の使ったコップは自分で片付ける
⑬ お風呂の水は最後なのを確認して水を抜く

スマホの使い方
① 1日30分以内にする
② 夕食後は使わない
③ 目覚まし時計の代わりに使わない
④ リビングのみの使用とする 以上の事を守ります。
〇〇 〇〇 (本名自筆) -―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
原文のままである。私は正直、驚いた。「挨拶」「貰う」「整頓」「箸」「配膳」などの漢字も、すべて正確に書かれていたからだ。

「よく自分の生活を振り返れば、百くらいは気をつけることがあるだろう」
私が半ば冗談交じりに言った言葉に、彼は真正面から向き合い、冒頭に「100もありませんでした」と書き出し、最終的に五十八項目もの誓約を書き上げてきた。

その後、この誓約書を基に、約一か月間、週三回のペースでカウンセリングを行い、一つ一つの項目について「なぜそれが必要なのか」を確認していった。

結果として、彼はこれまでの怠惰な生活を見事に改め、学業と部活動(野球部)の両立に取り組むようになった。そして一年半後、彼は某大学へと進学していった。

「やる気がない高校生」が突然変わった話ではない。むしろ、自分で自分に責任を引き戻した過程だと捉えることができる。

スマホゲームに依存していた彼は、感情に流されやすく、目の前の快・不快で行動を決めていた。しかし誓約書を書くことで、「どう生きたいのか」「何を選ぶのか」を、自分の言葉で整理する機会を得た。これは、他人に叱られて変わるのではなく、自分で自分に約束をする立場に立ったことを意味する。

誓約書をもとに行った面接では、守れたかどうかを責めるのではなく、「なぜそれが大切なのか」を一緒に確認し続けた。その積み重ねが、彼の中に少しずつ落ち着いた判断力を育てていった。

人は、管理されることで変わるのではない。

自分で考え、自分で決め、その結果を引き受ける経験を通して、初めて立ち直っていく。
この高校生の回復は、そのことを静かに教えてくれる一例である。

乗り鉄少年の自立 2025年11月24日

両親が相談に来られたのは、相談記録によると、彼が中学校3年生の8月25日のことだった。

小さい頃の彼は、30数個のご当地ぬいぐるみを大切にする、おとなしく几帳面で優しい子どもだった。3年保育でも行き渋りは学期の初めだけで、ほとんどなかったという。

九州出身の父親には素直な態度を示す一方、愛知県出身の母親には、思春期ゆえか、時折反抗的な態度を取っていた。母親の弟(彼の叔父)は自閉症である。2歳上の姉がおり、友達のように仲が良い。祖母は当時7年前にすい臓がんで亡くなり、祖父はその死を受け入れられず、当時1年前に自死していた。白内障の手術を受けたが、緑内障を見逃され、視力を失っていたという。

小学校高学年になっても友達はほとんどおらず、学校が嫌だと言うようになった。得意科目は社会で、「乗り鉄少年」だけに特に地理は得意だった。一方、計算のスピードが遅く、数学は英語とともに苦手で、基本的に勉強は嫌いだという。後に、翌月初めの学力調査の結果を聞き、その理由に納得した。

中学2年生の11月の金曜日、40代の女性教諭である担任(50代の母親と重なったのか)から、提出物をやっていたにもかかわらず持参しなかったこと、ボールペンで書く書類を鉛筆で書いたことを強く咎められた。その翌週の月曜日から不登校となり、部活(唯一できた近所の友達と同じテニス部)にも行けなくなったという。両親は、勉強と部活に追われ、疲れてしまったのだろうと語った。中学3年生になった現在、その女性教諭は隣のクラスの担任となり、男性教諭が彼の担任であった。

依頼を受けて心理テストの結果を見ると、感性(感情の発露)17、知性(客観視・論理性)20、父性(行動のコントロール)32、母性(世話好き・優しさ)60、順応性(周囲の目を気にする)はMAXの100であった。不登校の自分を周囲が「変な子」だと思っていると強く思い込み、自分の感情を抑え込み、登校という行動をコントロールできず、さらに自分自身を俯瞰できない状態であった。

29日、本人と面会し、約1時間話し合った。中学3年生のこの時期であるため、高校進学の意思を確認する目的で、彼の夢を尋ねた。「乗り鉄」と自称する彼は、父親と祖父の影響でいわゆる鉄道マニアとなり、二人と一緒に全国の鉄道を巡ったという。高校生になったら、まだ乗ったことのない鉄道に乗り、その写真を撮ってSNSで紹介し、現地の美味しいものを食べ、お土産を買って地域を応援したいと、生き生きと語った。単なる回顧趣味ではなく、地方活性化を志向する姿勢に、中学生ながらの意欲を感じた。その時、私は初めて「乗り鉄」という言葉の意味を理解した。おとなしいと聞いていただけに、能弁に語る彼の姿に驚かされた。

「それなら、明日からこの予備校に来て、夕方まで勉強しよう。君の高校進学を叶えてやる。」と、私は思わず豪語してしまった。改めて言うが、彼は中学3年生の8月29日まで、約10か月間不登校のままだった。学校では、普通高校への進学は難しく、通信制高校や専修学校の話を聞いていたはずである。しかし私は一方で、某私立高校の校長に電話をし、彼の入学試験受験について打診していた。

翌朝、彼は私の運営する予備校にやって来た。苦手克服の教科学習に加え、再登校に向けた週3回のカウンセリングと、両親への週1回のペアレントトレーニングを開始した。彼の毎日の予備校出席は、中学校から出席認定を受けた。勉強嫌いと聞いていたが、意外にも熱心に取り組み、分からないところは授業を再受講したり、私に質問したりした。確認テストも毎回80%以上で、着実に学力を伸ばしていった。

10月に入り、彼は「もう中学校に行きたい」と口にした。このまま不登校では、高校は学習意欲なしと判断され、受け入れられないことを、事前に十分伝えていたからである。とはいえ、11か月も登校していない彼が、いきなり一人で再登校するのは難しい。私は通常、翌日に緊張緩和の休養が取れる金曜日の再登校を勧めており、今回は3日後の金曜日を目標に準備を進めた。

私たちは不登校対応に入る際、本人と保護者の了解のもと学校を訪れ、心理的背景と今後の対応方針、再登校の段取りを説明している。対応中も適宜本人の様子を学校に伝えるため、学校側も落ち着いて協力してくれる。

前日の木曜日の放課後、時間割確認と、登校同行を依頼するため、彼が希望した友達との面談を学校に依頼した。翌日、唯一の友達であるU君の同席が認められたとの連絡が入った。私は担任の先生と電話で再度流れを確認し、簡単な打ち合わせを行った。

翌3日、木曜日の放課後、彼とU君を交えた面談が行われ、その後U君に誘われて自分の席を確認しに教室へ向かった。周囲の友達について説明を受けた彼の表情は緩み、翌日の再登校を確信した。

対応開始からわずか1か月余りの10月4日、彼は再登校を果たした。その後も高校受験まで支援は続いた。11月、彼と両親は紹介した私立高校の進学相談会に参加し、双方に好印象を持った。その高校から受験受け入れの連絡があり、結果として合格したが、彼は静岡中央高校単位制課程にも合格し、進学した。

彼が入試でプレゼンした「自己表現」の原稿(A4・4枚)には、不登校から自立に至る過程が克明に描かれていた。個人が特定されるため全文掲載は控えるが、そこには父親と、自死した祖父から受け継いだ思いが確かに息づいていた。

その後、彼は大学の観光学部に進学し、旅行会社に勤めているという話を、偶然街で出会った父親から聞いた。

母親の過干渉に苦しむ少年 2025年11月23日

その子のいとこの不登校を解消してから二年後の九月、中学三年生の男の子の不登校について相談が入った。友達に吹聴された根もない噂話がきっかけで、学校に行けなくなったという。

交流分析の心理テストを実施すると、感性の値は百点満点中〇点で、感情をほぼ完全に押し殺し、外に出せない状態であった。父性は十八点で、年齢に応じた行動、すなわち「学校に行く」という行動を自分でコントロールする力が弱い。母性は二十点、知性は十点と低く、自分の置かれている状況を俯瞰することも難しい。一方、順応性(周囲の目を気にする傾向)は五十七点と異常に高く、それが学校に行けない大きな要因となっていた。

心配した母親に連れられて来所した。本人を横に、母親は例の友達の話を一気にまくし立てる。時期は中学三年生の九月下旬である。この大事な時期に、そんな友達のことで学校に行けなくなり、普通に高校進学ができなくなるではないかと、怒りと不安を露わにする。自身の妹の子、つまり彼のいとこの不登校はどこか他人事であったが、まさか自分の長男が不登校になるとは思ってもいなかった。母親は焦りと恐怖の中にあった。

申し訳ないが、母親には先に帰っていただき、本人と二人だけで話をさせてもらった。話を聴くと、物静かな父親はうつを発症し、一年ほど休職したばかりだという。男勝りの母親は某社の管理職で、二十五、六人の部下を取り仕切っているとのことだった。

母親は毎朝の起床から歯磨き、制服の乱れや靴の汚れに至るまで細かく口出しをし、学校からの連絡や宿題の確認も当然のように行っていた。定期試験の成績についても、褒められた記憶はないという。成績は二百五十点満点中、二百点を超えているにもかかわらずである。いとこが高卒認定試験を経てOA入試で大学進学したという経緯もあり、母親の心配が過剰になっていたことも無理はなかった。

早速、当該中学校の出席認定を受け、毎日当フォーラムの教室に通って学習を続けることになった。併せて、週三回のカウンセリングと、週一回の両親面談を開始した。十月中旬には、夜発ち二泊三日の交流合宿にも参加し、稲刈りや当地の中学生との交流を体験した。

その翌月十一月末、彼は突然「先生、ぼく、今日の夕方、友達に話をつけてきます」と言い出した。このままでは自分が納得できないという。感情の発露と自己主張であり、カウンセリングの明確な効果であった。翌日から再登校を果たし、夕方に訪れた彼の晴れやかな表情から、友達との話し合いが実を結んだことが伝わってきた。言われっぱなしの生活に、自ら終止符を打ったのである。

翌年、寮のある高校を受験し、母親からも物理的・心理的に自立した。系列の大学へ進学し、その後は上越の会社に勤めていると聞いている。今頃は、もう家庭を持っているだろうか。

交流分析の視点から見ると、彼は「順応的子ども(AC)」が過度に肥大化し、「自由な子ども(FC)」が強く抑圧された状態にあったと言える。母親の強い管理的親(CP)からのメッセージを内在化し、「感じてはいけない」「逆らってはいけない」「期待に応えなければならない」という禁止令のもとで生きてきた結果、感情を感じる力そのものが閉ざされていた。

不登校は弱さではなく、これ以上自分を偽って生きられないという心の悲鳴である。カウンセリングと交流体験を通して、彼は未処理の感情を安全に表出し、自分の気持ちを言葉にする経験を重ねた。その積み重ねが、「自分の人生は自分で決めてよい」という再決断につながり、再登校という行動変容を生み出した。

子どもの自立を阻む最大の要因は、過干渉そのものではなく、親自身の不安が処理されないまま子どもに投影されることである。未処理の感情に向き合い、関係性を調整することこそが、世代を超えて繰り返される生きづらさを断つ鍵なのである。

ユーチューバーになるから、学校に行く必要がない 2025年10月13日

「僕はユーチューバーになるから、学校に行く必要がない」と豪語し、当時小学校4年生の途中から約2年間学校に行かなくなった男子児童の相談を受けた。不登校のきっかけは、彼自身の発言を周囲にからかわれたことにある。

2回にわたって彼に直接会おうと自宅を訪問したが、彼は「会いたくないし、会う必要もない」と2階の自室に籠もった。机でドアを押さえ、開けさせないようにし、壁を蹴りながら泣き叫ぶ。その様子は、長期の不登校により非認知能力が十分に育たず、感情の制御が困難になっていることを示していた。最終的には、両親や祖父母が階下で対応し、彼を落ち着かせる形で状況を一時的に収めた。

学校に行かないため「やることがない」と言い、スイッチやYouTubeに熱中する日々。母親は制限時間を設けても守られないため諦め、父親は「やることがないのだから仕方ない」と彼を弁護していた。この両親の対立と祖父母の介入が、家庭内の緊張を高めていた。

土曜日、両親が相談室に来て、まず彼の詳細な成育歴を聴き、背景や素因を分析した。そして毎週、両親(時に祖父母も)に来ていただき、彼の様子を確認しながら、解消に向けた対応をアドバイスする形でプログラムが始まった。

父親が彼と向き合えない理由は、父親自身と祖父との関係の影響も明らかになった。そのため、ロールレタリング(役割を入れ替えて手紙を書く手法)を活用し、父親のカウンセリングも行った。母親にもその内容を伝え、夫への理解を促した。

彼自身は、ユーチューバーになると言いながら、自ら動画配信を行うわけではなく、ひたすら有名なユーチューバーに憧れるだけだった。しかし彼は、いずれ自分も同じように豪邸に住むユーチューバーになると真剣に夢見ていた。そこで私は母親に伝えた。「そのユーチューバーも、実は国立大学卒で知識も技術もある。ユーチューバーとして成功するのは一部の人で、多くは長く続かない」と現実的な情報を示した。

もちろん、彼は最初は耳を貸さなかった。そこで私は対応の方向を変えた。「それなら、自分で動画配信を始めてみたら?」と母親を通じて伝えた。母親は驚いたが、実践を通して現実を知ることが、彼にとって最も効果的だと判断したのである。その後、対応開始から1か月ほどで、彼は私と会うことを許した。小学校6年生にしては幼さの残る彼だったが、ユーチューバーの夢に溢れ、話は盛り上がった。

まずは、自分で考えた動画を配信し、毎日続けることが重要だと伝えた。動画配信に必要な最低限の機材は知人から調べ、母親に購入してもらった。最初は編集や撮影に苦戦し、フォロワーも増えなかったが、体験を通して現実を知ることが彼にとって大切であった。

数か月後、彼はユーチューバーになることの難しさを理解し、動画配信を断念した。その代わり、フリースクールに通い始め、少しずつ学習に取り組むようになった。こうして、私たちの支援は一区切りとなった。

交流分析の視点で振り返ると、彼の行動は典型的な「子ども状態」からの発信であると言える。自己表現や自己主張は強いが、感情の制御や現実評価の能力が十分に育っていない。長期不登校による非認知能力の未熟さも影響していた。

両親や祖父母との関係は「親の状態」と「成人の状態」が複雑に絡み合い、子どもとの対峙を難しくしていた。父親は「保護者としての成人の役割」を十分に発揮できず、子どもに迎合する傾向があった。母親は「養育的親の役割」として必死に関わるも、父親との相違により心理的負荷が高まった。

私たちの介入では、まず両親の「親の状態」を整理し、理解と協力を促すことが重要だった。そして彼に対しては「子ども状態」としての夢や好奇心を尊重しつつ、「成人状態」への行動経験(動画配信)を通じて現実的な学びを促すアプローチを取った。このように、交流分析の視点で関係性を整理することで、本人と家庭双方の心理的負荷を軽減し、行動変容を促すことができたと言える。

Yさんの場合 25年9月28日

彼女の両親は、成人式で出会い、彼女ができたため結婚した。産後は母親の実家に同居した。母親は彼女を祖父母に預けて外出することが多く、月に数回は朝帰りもあったため、実母(彼女の祖母)に叱られることもあった。これは育児放棄といえる状況であった。

彼女が2歳を過ぎた頃、母親の実家を離れアパートに半年ほど住む。その間、母親はキャバクラでバイトする。父親は「キャバクラに行くな」と注意するも、母親は金銭目的のためだと暴言を吐き、結局放置された。彼女が3歳になる少し前に、母親に男ができたことで強引に離婚し、彼女の母子手帳や写真を渡し実家を出て行った。父親は彼女の3歳の誕生日を機に彼女を連れて彼の実家に入った。彼女は託児所に預けられ、4月から保育園に入園した。保育園では彼女は元気に過ごしたが、友達の物などを盗むことがあったという。

小学校に上がってからは学校に張り切って登校したが、転倒による怪我やインフルエンザによる欠席をきっかけに不登校を経験。授業に復帰するも、自分に注目してほしい気持ちから友達にマスコットを配るなどの行動で担任に注意される。

3年生の時父親が再婚した。2カ月だけアパートで3人で暮らしたが、彼女が継母から嫌がらせを受け、彼女だけ父親の実家に預けらた。朝、父親に送ってもらい、登校を続けた。
しかし、担任と合わなくなり、学校を休みがちになり、市立総合病院の心療内科に通った。心身症と診断された。友達をいっぱい作ろうと言われ、2,3カ月学校に通った。放課後学童クラブで喧嘩してしまい、学童をやめた。カギっ子になった。

4年生の担任とは気が合い、友達もできた。その友達の万引きの誘いは断った。5年生の時、担任の配慮で登校は続いたが、反抗期を迎え休みがちに。父親だけ彼女の住む実家に戻り、継母とは別居のままだった。

6年生では担任と合わず、休みながらも登校を続け、新たな友達もできた。髪の毛を染めるも、学校で注意され直す。その友達とプチ家出をするが、すぐ見つかり、その友達とは引き離された。

中学に入学すると、張り切って2学期まで学校に行った。部活は1学期でやめてしまう。スマホを学校に持ち込み担任に何回か注意され、2月頃から再び不登校となった。

2年生になり新しい担任になったが、友達に疲れ、再び不登校になった。精神科に4か月通い、ピアスOK、何でもやりたいことをやりなさいと言われ、ピアス、髪染め、タツー・・・。セカンドオピニオンを勧められ、再び市立総合病院心療内科に、翌年1月から週1回のペースで通院している。AⅮHD、数学障害、パニック障害と言われ、精神安定剤と睡眠導入剤を処方されているという。

3年生になり、学校から紹介され、私の元に相談に来られた。中学生ながら、昼間から酎ハイを飲むなど、アルコール依存の兆候もあった。リストカットや援助交際など、自傷的行動を繰り返し、誰かのせいでもなく自身の心の傷や不安から生まれる生きづらさを抱えていた。

彼女の問題の根底には、母親との関係による「愛情飢餓」がある。乳幼児期に母親の愛情を十分に受けられなかったことが、生涯にわたり、自己肯定感の低さや不安定な対人関係、自己破壊的行動の原因となっている。愛情飢餓は、母親以外の存在への依存や、危険な関係への無自覚な接近を招き、薬物やアルコール、援助交際といった行動に表れることもある。

子どもは、母親の愛を求めるという本性をもって生まれてくる。子どもの何よりもの願いは、母親に愛されたいということ。だから、母親の期待することに応えようとする。乳幼児期に、母親の不在(離別、育児放棄)によって、その母親の愛情が得られないと、生涯にわたってそれを求め、そこに拘り続け、子どもが自分自身を確立し、自立していくというプロセスを妨げてしまう。その乳幼児期が、子どもの体だけではなく、脳や心を形づくるかけがえのない時間があるが故に、その影響は、その後の彼女の対人関係の持ち方やストレスへの敏感さ、彼女の子どもや異姓の愛し方、精神的健康のみならず、身体的健康や寿命にまで影響を及ぼす。自覚するにせよ、そこから目を背けているにせよ、それによって得体の知れない生きづらさや、空虚感、自己否定感に悩まされている。

引きずり方も様々である。継母であろうと、親に愛されたい、認められたいという思いが、過剰なまでの行動になって表れる場合もあれば、それが裏返って、親を苦しめようとし反発する場合もある。親に認められない自分を駄目な人間だと感じ、知らず知らず自己否定に囚われてしまう。そんな自分を罰するかのように、自分を損なう自傷行為に耽る。直接親を攻撃し痛めつけることによる場合もあるが、彼女はむしろ自分自身を駄目にし痛めつけることで、間接的に親に痛みを味わせようとする。

母親に認められていない、愛されていないという思いが心のどこかに巣食ったままで、何事に対しても積極的になれなかったり、ネガティブな考えに囚われる。親代わりの存在を求め続け、代償的な行為(援助交際も一つ)に耽る。手痛い失望や裏切りに遭う。それでも、諦めることができず、幻を追い続ける。それほど母親を求める気持ちは深く、本質的なものである。

その寂しさを紛らすために、彼女は薬物やアルコールに依存する。それは、母親の胸に抱かれて「よしよし」されながら眠りにつく感覚に似ている。薬物・アルコール依存の泥沼を抜け出すまず一歩は、自身が断ち切りたいと決意することであり、そのきっかけを作るのは、本当は実の母親の心からの謝罪と愛情である。しかし、彼女の場合、それが果たせない。

深刻な愛情飢餓を抱えているから、相手をよく見定めることもなく、淋しさを紛らわせる存在(隣市の彼や援助交際相手)につかの間の満足を求めていく。母親に愛されないことは、愛情飢餓を生むだけではなく、困ったことやピンチに遭遇した時に、助けを求めて甘えるということを難しくする。甘えていいはずの母親に甘えられず、うわべだけ見れば、一番危険な人(隣市の彼か。これは彼女に決して言わないようにと、念を押す)が、一番優しそうに振る舞うから、あるいは、本当の愛情を知らないから、彼女は見せかけの愛情に引っ掛かり、一番危険な人に助けを求めている。

自分がいつも傷つけられ、損をさせられているという思いが強すぎるため、子細なことに傷ついて、父親や祖父母、叔母にさえ、相手を深く傷つけるような反応をしてしまう。傷つきやすいということは、一方で落ち込みの原因になるが、もう一方では怒りに囚われやすいということである。

基本的安心感は、ゼロ歳から1,2歳までの、全く記憶に残らない体験によって形作られる。母親が子どものことに全神経を傾けて過ごす母性的没頭こそが、この基本的安心感を育む。

幼い頃に、よく可愛がられ、世話された子どもでは、子を養育するオキシトシンだけでなく、セロトニンなど、不安をコントロールする働きを持った神経伝達物質の受容体が増える。その結果、母親との愛着が安定したものとしてしっかり結ばれると共に、不安やストレスを感じにくい体質を授けられることになる。

しかし彼女の場合、不幸にもそうでなかったため、基本的安心感を育むことができず、いつも居心地の悪さを感じ、自分に対しても違和感を覚えることになる。自分が自分であってないような不全感を持って育つことになりやすい。何とも言えない空虚感に慢性的に苦しめられる。自分でも理由の分からない怒りに囚われることもある。こうした空虚感や怒りを紛らすために、刺激的な行為に熱中し、神経を麻痺させる薬物やアルコールに頼る。空虚感が強いから、素面でいること自体が苦痛なのである。それらも元を辿れば、幼い頃に味わった寂しさや不安、不快感に由来している。

では、どのように代理母(叔母か、祖母)が彼女に対応するか。たっぷりとしたスキンシップで、彼女の安全感を守ることが第一である。子どもは困った時、助けを必要とする時、すぐに飛んで来て、手を差し伸べてくれるということが、子どもの安心感と信頼感を育む上で基本中の基本である。

彼女と安定した愛着を結ぶことができる代理母に必要な特質は、感受性、即ち、子どもの気持ちや欲求を感じ取る能力が豊かであることと、応答性、即ち、子どものアクションに対して、声や表情や動きで反応したり、彼女が求めていることを満たしてやったり、困って助けを求めていれば、救いの手を差し伸べたりすることが豊かであることだ。そういう対応が代理母には求められる。このことを心得て頂きたい。

母という病を抱えた人が回復するためには、実の母親を批判し、反抗する時期が必要である。自分が抱えてる問題の一端が、母親にあると言い出し、母親を責めることも起こる。

子の傷を癒すには、子は怒りや苦しみを吐き出し、自身と母親の涙で傷口を洗うしかない。だが、余りにも傷が深い時、最初は涙すら出ない。何の感情もわかず、言葉すら出ない。出てくるのは、親からされた否定的な体験である。現実的に彼女には、それができない。

遅くやってきた反抗期である。今まで心にしまい込んできた恨みつらみを、親に対してずっと我慢してきた思いをぶちまけるのである。親が向き合ってくれるのならば、親に語り、受け止めてもらうことが、勿論、最も迅速な癒しと回復をもたらすが、現実にはできないことである。

親に分かってもらおうとすればするほど、壁や隔たりを感じ、傷つくことも起きる。ましてや、本音をぶつけたりして、親が強い怒りと拒否を返すと、親から見捨てられるという思いに打ちひしがれる。だから、気を付けて対応して頂きたい。

子ども時代に溜め込んだ捻じれを解き放ち、大人になる前に、本来の状態を取り戻したいという本能的な願望から、これからの青年期から成人期の初めに、様々な問題が噴出する。

それは、本当の意味での愛情が不足した結果である。では、安定した愛着を築き直すには何が必要なのか。愛着は、手をかけ、暇をかけ、関わる中でしか築かれない。もう一度、赤ん坊が生まれた気になって、手をかけ、暇をかけ、関わるしかない。母性的な献身をやり直すしかない。母という病を克服するきっかけを得ようとする自己修復の試みである。

一番の近道は、彼女が赤ん坊のような状態に逆戻りして、一から世話をされ、甘え、愛情をもらうことかもしれない。

母という病を克服するためには、母親に対して反抗の狼煙を上げ、自分が抑えてきた思いを吐き出し、母親とぶつかるという段階が必要であるが、彼女の場合不可能である。

従って彼女の場合、もっと共感的で安定した、支えとなってくれる代理母(何回も書くが、現状を考えると、叔母か、祖母)との間で愛着を育み、愛着の傷を修復し、代理母との関係を安定したものにしていくというのが、現実的である。

彼女が犬を好きであれば、子犬を飼い、彼女に世話をさせるのもいい。彼女が子犬に親のような愛情を注ぐ体験をすることが、彼女の中に眠っている愛着の力を活性化させる。それは、支えを必要としている存在を支え、守らないではいられないという本能なのである。それこそが、父性や母性の本質である。

そして、彼女に何事にもポジティブに反応する癖をつけ直して頂きたい。その一歩は、笑顔を増やす努力をさせることである。笑顔とは、相手に向けられた優しさだが、自分のためにもなっている。

また、怒りに駆られ、攻撃的な言葉を投げつけたい衝動に駆られた時こそ、自分が試されていると思い、じっと堪えることである。そう彼女に諭してほしい。

更に、苦しみの9割は、誰かのせいでもなく、自分自身の傷つきやすさと人を信じられない気持ちが作り出している、とも伝えてほしい。

そして、彼女には良いことに目を向けさせて頂きたい。自分にしてくれた、ためになること、良かったことを思い起こさせることである。周りは、彼女の優しい一面やひたむきな一面など、その良い面に目を注ぎ、そのことへの評価や感謝を伝えるように心がけることである。

また、問題やトラブルに感情で反応せず、一つ大きく呼吸して、気持ちを落ち着けたら、まずすべきことは、事実と気持ちを切り分け、事実だけを冷静に見つめるさせることである。

不思議なもので、人生は、その人の言っているようになっていく。だから、私、山下は、彼女の高校に行きたいという前向きな姿勢に、その実現のためにお手伝いしようと、彼女への皆さんの対応の詳細をまとめた。彼女に自分がどうなりたいか、それをはっきりさせることが大事である。こうなりたいこと、こうなりたくないことを、いつも口にさせることである。それが人生をデザインし、進むべき針路を明確にする。

何日かに渡って、父親と叔母、祖母には、以上のことをしっかりと理解してもらった。その後、何回か彼女への対応の相談に来られた。入院していた彼女の祖父は数カ月後、亡くなった。父親や叔母や祖母は、叔母曰く「これらの私のアドバイスを頭に叩き込み」、根気強く彼女に対応してくれた。数年後、彼女は1年遅れで通信制高校に通っているとの連絡を、祖母から頂いた。

R君のこと 2025年9月26日

彼は、祖父が日本人の日系三世のフィリピン人である。中学3年の11月に、親の都合で来日した。ところが、某市独自で日本語指導をするとのことで、弟と妹は小学校就学が認められたものの、彼は日本語が全く分からぬまま中学校卒業資格取得だけのために(もちろん、親の都合で来日したからそれだけの理由だが)某市立W中学校への就学が認められず、私達が運営する「ふじのくに中央日本語学校」に来た。後のNHKの取材では、某市教育委員会は「それはR君側の取り違いである」と否定したが。

驚異的な彼の努力で、わずか半年で『みんなの日本語 初級』Ⅰ・Ⅱの2冊を履修し、日本語の日常会話を習得した。その後、中学3年の11月に来日した彼は、フィリピンでも日本でも中学校を卒業していないため、高校進学のためには公立高校入学試験並みの5教科の中卒認定試験に合格しなければならなかった。そのため彼は、日本の中学3年生が学習する「夏期講習」「冬期講習」のテキストで、英語・数学・国語・理科・社会の5教科の学習に入った。しかし、「学習方言」の壁が立ちはだかった。

例えば、「数学方言」で「線をひく」の「ひく」は、pull? subtract? run? draw? slide? saw? grind?のどれなのかが分からない。「国語方言」に至っては、「下線部を読んで」?――えっ? 下に引いてある線をどうやって読むの? という状態である。もちろん、古文、漢文、和歌や俳句もある。社会では、フィリピンでは自国の歴史しか学んでいなかったため、日本の歴史だけでなく、関連する外国の歴史も加わり、学習は大変であった。

彼には、読み方が分からない学習言語は電子辞書で手入力して読み方を調べ(今はスマホで写真を撮れば翻訳が出るらしい)、意味を英語に翻訳して理解する、という自立学習の方法を教えた。彼は調べた学習言語をすべてノートに書き込み、覚えた。すごい量だったが、「ノートに書くと覚えやすい」と彼は言った。「学習方言」は、その都度、私が電子辞書を片手に英語で教えた。彼は5か月間で、2冊の夏期・冬期講習のテキストをやり切った。

そして、当校に入学して11か月後の10月、中卒認定試験を受験し、英語・数学・理科・社会の4科目に合格した。見事だった。高校での学習を考え、合格した科目も含めてレベルを上げた夏期・冬期講習のテキストで、再び学習を始めた。1年後の10月25日、残りの国語の中卒認定試験に再挑戦した。12月中旬、合格通知が届いた。彼は嬉しそうに、その合格通知書を見せてくれた。

しかしながら、某市が独自で日本語指導をするのであれば、市は否定したものの、2年前の11月にW中学校へ就学させて頂けていれば、これほど優秀な子が高校進学のために2年も足踏みすることはなかったのではないかと、悔やまれた。ただ、捉え方を変えれば、市が彼に与えたその試練が、高校進学のみならず、その後の日本の専門学校卒業までにつながる学力を身につけさせたとも言える。そう考え、彼にもそのように伝え、納得させた。

彼は翌年3月の公立高校入学試験にも合格し、年齢制限のない県立高校単位制課程に進学した。この快挙は新聞にも取り上げられた。

その後、彼は前述の通り専門学校にも進学し、卒業後、日本で働いている。ただ、大変申し訳ないが、その後も某市の中学3年生が、日本語能力が不十分なまま高校進学ができず、当校に入学してくる現状が続いている。当校では、最初にR君に教えた自立学習の方法を指導し、1年かけて日本語と教科を教え、高校に進学していく実態を、ぜひ某市にも見て頂きたい。