T大学に受かったE君の話 25年9月24日
学習塾で私達が直接教えていた時代の話である。私達は、「中学校時代に国語の力を身につければ、高校では必ず学力は伸びる」という信念から、中学校の国語の授業を重視し、力を入れていた。
中学校時代、国語が苦手だった私は、高校1年の12月、ドクターストップで部活動をやめさせられ、時間を持て余すようになった。そこで国語のT先生に頼み、当時の高校では珍しかった国語のゼミを開いて頂いた。「一人ではやりづらいから、友達を2、3人誘って来い」と言われ、友達2人を誘ってゼミが始まった。
最初のゼミは今でも覚えている。テキストは、能の指南書『風姿花伝』だった。文庫本を買って読んで来いと言われ、1週間後にゼミが始まった。いきなりその内容について質問された。難解な能の指南書である。私は思わず「分かるはずがない」と言ってしまった。すると、いきなり怒られた。
「君が国語の力をつけたいと言うから、このゼミを引き受けた。なのに、いきなり『分かるはずがない』とは何だ。だから君は国語ができないんだ。君は文章の読み取り方を分かっていない。著者は、言いたいことが変われば段落を変える。だから、その段落には必ず一文、著者が最も言いたい文がある。それを見つけてつないだものが、その著者の論旨だ。その論旨から設問に答えれば、必ず正解にたどり着く。では、その言いたい文を見つけるために、段落をどう読み込むか。実は、段落の表現の仕方は三種類しかない……」
あの東進の林修先生が語られる読解の仕方とは表現こそ少し違ったが、教えられた内容は全く同じだった。次回、再び同じテキストを用いて内容について議論をさせられた。その後数か月間、さまざまな文庫本をテキストに、読解力・判断力・表現力の訓練を受けた。おかげで、私の国語の定期試験や当時の公開模試の得点は大きく伸び、浪人はしたものの、国立大学人文学部合格へとつながった。
こうした経験から、私達が当時運営していた学習塾では、月1回の作文指導も含め、T先生に教わった国語の読解力・判断力・表現力を鍛える授業を行っていた。もちろん、国語読解の基本は文の読み取りである。すなわち、単文・複文・重文といった文型を踏まえたうえで、主語・述語の把握から始まり、文節の修飾・被修飾関係を理解することで文を読み取る。そして段落を読み取り、著者の論旨を把握する。その論旨から答えを導く判断力、答えを記述する表現力を鍛える授業である。
E君は、そうした授業によって国語の学力を伸ばし、その結果、他の4教科の学力も伸び、地域で一番の進学校に入学した。もちろん、高校進学後も引き続き当塾で学習を続けてくれた。
ところが、そのE君が高校2年の2学期が始まったある日の朝9時頃、母親と共に当塾を訪れた。話を聞くと、「日本で一番の難関双頭大学・T大学に行きたい。そのために高校を中退し、受験勉強に専念したい」と言う。驚いた。「毎日、朝から塾で勉強させてほしい」とのことだった。ただし、夜の塾の授業にも引き続き参加するという。
話し合いの結果、彼の性格を踏まえ、毎日朝9時から16時頃まで当塾で高校の教科書や紹介した参考書を用いて学習し、16時頃から1時間ほど、私や担当講師が質問対応をする形を取ることになった。T大学志望とはいえ、私達にも塾業務や夜の授業準備、さらにはNPO事業への対応があり、朝から付きっきりで指導することはできない。そもそも、受動的な授業はインプットの一手段に過ぎず、能動的な自立学習こそが学力を伸ばす最良の方法である。
そこで、朝から16時頃までの学習については、私自身が自宅浪人時代に編み出した学習方法、すなわち『古文研究法』『わかる物理』などの参考書の名著と、『受験の英語』『受験の数学』(いずれも当時)の月刊誌を活用した、大学受験5教科の自立学習法を伝えた。他の担当講師達も、それぞれの経験を話してくれた。それらを参考に、E君自身が自分に合った勉強法を決め、実行していった。
まず、約2か月後の11月上旬、当時の大学検定試験の残り3科目に合格し、大学入学試験の受験資格を得た。その後も可能な限り各種模試を受験し、その都度、私達は成績を分析して本人と話し合い、学習内容を調整しながら受験勉強を支援した。彼は高校中途退学から1年半、この学習を見事にやり切った。
結果、念願のT大学文科二類に合格したのである。
大学受験の兄弟の話 2025年9月23日
当予備校では、現役高校3年生の入学期限を9月15日としている。それは、合格実績のためだけに短期間で責任をもって志望大学合格へ導くことはできない、との方針によるものである。また、生徒数を水増しして合格実績を謳い、生徒募集を行う予備校業界の風潮に異議を唱える意味もある。
そんな折、9月20日の模試の成績表返却面談で、地域で一番の進学校に通う高校3年生のT君が当校を訪れた。超難関双頭の一つである国立K大学文学部がB判定だった。弟は陸上競技で全国クラスの成績を収めており、両親はオファーのある私立K大学の推薦入試受験を認めているのに、兄である彼には経済的理由から国公立大学進学しか認めないと言われている、と不満を漏らした。だからこそ、どうしても国立K大学文学部に合格したい、という相談であった。
実は彼は、高校2年の2学期から当校で模試を受けに来ており、確実に国立大学文学部に合格するためには、同学部の出題傾向に合わせて弱点単元を克服する授業を受けた方が良いと考え、成績表返却面談のたびに当校への入学を勧めていた。無料の新年度招待講習も案内し、授業も体験してもらった。彼は私の生まれ故郷の子でもあり、私自身、勝手に親しみを感じていた。その都度、両親に相談したが、経済的理由から難色を示されたという。
しかし今回は違った。B判定まで引き上げた彼の努力を評価し、「最後の一押し」を当校に託されたのである。模試の成績とB判定を基に特別入学申請を行い、当校への入学が認められた。冒頭で述べた入学期限の例外規定――旧帝大以上志望かつ模試でB判定以上――に該当したためである。
彼は毎日当校に通い、閉校時間まで勉強に励んだ。その姿に当校スタッフも感心しきりだった。しかし、共通テストで思うような結果が出ず、残念ながら国立K大学の前期試験は不合格となった。だが、彼の学力は本物だった。募集定員わずか数名の旧帝大文学部後期試験に見事合格したのである。
その10か月後の12月初め、今度は彼の弟が当校を訪れた。
「えっ、どうして? 私立K大学の推薦で決まったのでは?」
そう思ったが、話を聞くと、オファーのあった私立K大学の推薦入試を辞退し、国立大学体育学群の学校推薦型選抜を受験したという。しかし、陸上競技で彼以上の成績を残した受験生がいたため、惜しくも不合格となったとのことだった。兄に相談したところ、「俺の時と同じだ。先生に頼め」と言われ、来たのだという。
とはいえ、私立大学入試まで残り2か月を切った時期であり、すでに高校3年生の通期講座入学期限も大きく過ぎ、例外規定にも該当しない。正直、困った。しかし、兄から託された以上、何とかしなければならない。
直近の模試データを基に学力を詳細に分析し、受講可能な90分授業10回以下の「講習講座」(一般の夏期・冬期講習に相当)で、志望する体育学部系の国公立・私立大学受験を想定した講座提案書をその日のうちに作成し、「これを持って両親と相談しなさい」と手渡した。
数日後、彼は各大学の陸上競技の練習環境を自分で調べ上げ、最適な私立体育系大学を決定し、当校に入学して受験勉強を開始した。兄と血は争えない。驚くことに、学校を休んでまで、朝から閉校時間まで当校で勉強した。すでに、欠席しても卒業できることを調べていたのである。その根性には感服した。
結果、彼は志望大学に見事合格し、現在は陸上競技に励んでいる。私は数年後、日本代表として世界大会で活躍する彼の姿を夢見ている。
無口なS君のこと 2025年9月21日
「お願いします」「ありがとうございました」
授業の始めと終わりに、きちんとお辞儀をして挨拶するS君。それ以外は一言も発さず、じっと下を向いたまま、教科書や塾のテキスト、ノートを見つめている。時折黒板に目をやり、今にも消えそうな薄い文字でノートに書き留める。最近は学校の授業も週に何日か、しかも午前中の1、2時間だけ出席して早退しているという。
当スクールには別の場所に「オープンゼミ」(当時)があり、不登校や学校を休みがちな児童・生徒を個別に指導していたため、そちらを勧めてみた。しかし彼は、部活動の友人が通う普通のクラスに行きたいとのことで、現在は通常の中学3年生クラスに参加している。
理科は好きな教科だけあり、理解も早く、取り組みも積極的である。9月の学力調査に向け、期末試験後から始まった1・2年生内容の復習授業では、板書が多く、それを書き留めるのに少し苦労している様子だった。そこで一番前の席に座らせ、彼の様子を確認しながら授業を進めたが、私自身もジレンマを感じていた。
一斉授業の欠点を補うため、授業の半分は個別指導に充てているが、1教科週1時間という限られた時間で5教科を指導する学習塾では、単元の要点を一斉に説明し、その後に個別で理解を確認する形になる。授業中、生徒の目の動きは理解度を示す重要なサインだが、ほとんど下を向いている彼の場合、それを読み取ることができなかった。
彼を預かって2か月が過ぎた頃、本人の希望で何度かオープンゼミでも指導するようになった。次第に彼は自分のことを話してくれるようになった。一人っ子であること、釣りが好きなこと、自分でも無口だと思っていること。しかし、まだ本音を語る段階には至っていなかった。もっとコミュニケーションが取れ、自分の気持ちを吐露できるようになれば、と願いながら指導を続けていた。
そんなある日、授業後に彼が私のもとへ来た。「学校に行けなくなった」と言う。周囲の視線が気になり、教室に入れない。もう中学3年生なので、何とかしたいとも打ち明けた。話を聞くと、学校を休みがちな自分を、周囲が「変な子だ」と思っているのではないか、と気になって仕方がないという。
人は、かつて自分が抱いた考えや感情を「みんなも同じように思っている」と感じやすい。おそらく彼自身、以前、不登校の友人を「変な子だ」と感じたことがあったのだろう。だからこそ、不登校になった自分も「変な子(ダメな子)」だと思われていると決めつけてしまう。
「友達に、そう思っているか聞いてみたことはある?」と尋ねると、「いや、絶対そう思っている」と即座に答えた。これは、不登校状態にある子どもたちの多くが口にする言葉でもある。
その場で心理テストを実施すると、父性(CP)と感性(FC)が低く、知性(A)が高い一方で、順応性(AC)が極端に高いという結果が表れた。私はその結果を基に、なぜ彼がそのように思い込んでしまうのかを丁寧に説明した。そして、人は「自分が思ったことは、他人も同じように思う」と考えがちだが、価値観は人それぞれ違うため、必ずしも同じ考えになるとは限らない、という話をした。
例えば、真っ青な空に鳥が群れを成して飛んでいるのを見て、「楽しそうだ」と感じる人もいれば、空の青さと鳥の白さに「どこか寂しさ」を感じる人もいる。同じものを見ても、感じ方は人によって異なるのだ、と伝えた。
もちろん、それだけで学校に行けるようになるはずはない。本人と両親の申し出により、週3回のペースでカウンセリングを開始し、夏の交流合宿にも参加してもらった。その結果、2学期からは早退することもなくなり、通常通り学校に通えるようになった。そして最終的に、公立高校への進学を果たした。
交流分析の観点で見ると、S君は高い順応性(AC)と知性(A)によって周囲の期待や評価を過剰に読み取り、自分の感情や欲求(FC)を抑え込む生き方をしていたと言える。
「みんなが自分をどう思っているか」という思い込みは、適応的であろうとするACが暴走した結果であり、そこに「自分の感じ方は一つの見方に過ぎない」というAの理解が加わることで、少しずつ修正されていった。
カウンセリングや交流合宿を通して、彼は安全な人間関係の中で自己表現を試み、抑え込んでいた感情を取り戻していった。その過程で、ACに偏っていた心のバランスが整い、自らの力で学校生活へと戻る選択が可能になったのである。
この事例は、問題行動の「解消」ではなく、人格の中のエネルギーバランスを回復することが、結果として不登校の改善につながることを示している。
中学2年生のプライド 2025年9月19日
彼の家族は、60代後半の父方の祖母、40代後半の父親、40代前半の母親、そして2つ年下の弟の4人家族である。父親は、祖母も自慢とする、亡き祖父と同じ出身の某有名国立大学経済学部卒の国家公務員である。特に1月・3月・7月は、そろばん片手に多忙を極める仕事と言えば、ご想像がつくかと思う。
当然、長男である彼に寄せられる周囲の期待は計り知れないものがあった。彼自身も、これまでの成育過程の中でそれを十分過ぎるほど感じ取ってきており、それが表面上の強いプライドを生み、彼の高いAC(周囲の目を過度に気にする「いい子」的順応性)として現れていた。
一方で、彼はNP(思いやりの強い母性的側面)も高く、災いしてか、自分の息子なら自分と同じ道を歩めるはずだと思い込む父親の期待に、小学校までは何とか応え続けてきた。
しかし、霊峰富士の麓への新築住宅購入に伴い、学期途中で転校した中学校での学習は、そう簡単にはいかなかった。特に数学では文字化・一般化(方程式)が始まり、1年生の2学期頃から英語も本格化し、次第に理解できなくなっていったのである。
ところが、転校直後でまだ友人もおらず、分からないことを人に尋ねることができなかった。いや、正確には、分からない自分をさらけ出すことを、彼のプライドが許さなかったのかもしれない。考えてみれば、それは少し気の毒なことでもある。
転校生としてクラスの前に立ち、担任から紹介されれば、「どんな子だろう」と一斉に注目を浴びる。その視線の中で、多くの子が無意識に「いい子」であろうとするのは、自然な反応であろう。
やがて声を掛けるようになった同級生は、ややいたずら好きな生徒たちだった。彼らの些細な悪ふざけが、彼にはどうしても許せなかった。これは彼の高いCP(強い正義感・道徳感をもつ父性的側面)をよく表している。しかし同時に、NPの高い彼は「彼らも決して悪い子ではない」と理解しながらも、心から親しく付き合うことができなかった。これは、彼の内面でのCPとNPの葛藤だったのだと思われる。
しかも彼は、「プライド」という仮面をかぶったまま、本当の自分をなかなか出すことができなかった。その頃から学校を休みがちになり、母親がさまざまな相談機関を探した末、翌年5月に私どものもとへ相談に来られた。
私どもでは、まず親子それぞれに心理テストを行い、詳しい成育歴を伺った上で、ご両親と祖母に対し、これまで述べてきたような彼の心理的特徴を、さらに詳しく説明させていただいた。
その後、距離の問題もあり、彼にはインターネットを通じた学習指導を行いながら、ご両親とは週1回、本人とは週3回のペースで、オンラインも活用しつつ、あえて別々に、腹を割った話し合いを重ねていった。こうして周囲の理解を得ながら、約5か月かけて、彼が一人で背負いきれなかった重荷を少しずつ降ろしていったのである。
その年の夏には長野での交流合宿、翌年春にはオーストラリアでの交流合宿にも参加した。同世代の仲間たちとのさまざまな活動を通して、楽しくも深い心の交流を経験し、次第に素直な感情を自然に表現できるようになっていった。周囲の目を過度に気にする様子も薄れていった。
そして、2学期の10月上旬、ついに学校への授業復帰を果たした。なお、5教科の学力が安定する2年生の終わりまでは、引き続きインターネットを通じた指導を行った。その後は彼自身の希望で、当グループの予備校に入学し、大学進学を目指すこととなった。
そして4年後、父親の出身大学ではなかったものの、見事に国立大学法学部への合格を勝ち取った。お礼に来てくれた際の、ご両親の安堵した表情と、彼の晴れやかな笑顔は、今でも忘れられない。
彼は高いACによって周囲の期待に適応し続ける一方、高いCPとNPの間で葛藤を抱え込み、「本音」を出すことができない状態にあったと言える。その結果、自己否定や回避行動としての不登校が生じたと理解できる。
支援の過程で重要だったのは、彼のACを責めることではなく、安全な関係性の中でA(成人 自我)を育て、自分の感情や限界を現実的に捉え直せるようにした点である。また、交流合宿という場で同世代との対等な関係を経験したことは、「期待に応える自分」ではなく、「そのままの自分」で人と関われる体験となり、彼の自我状態のバランスを大きく回復させた。
この事例は、思春期の不登校が「怠け」や「逃げ」ではなく、過剰な順応と未処理の期待の重さから生じる心のサインであることを、改めて示しているように思われる。
学習塾小景 2025年9月19日
今日、ここ藤枝市と岡部町(当時)内のほとんどの小中学校では、学期途中の休業日(当時)となり、学校はお休みだった。10日の第2土曜日から三連休となったのである。
しかしながら、私たちのような小さな学習塾では、日曜日以外はそれぞれの学年の授業がきちんと組まれており、学校に追随して休みを取ると、その学年だけその月の授業数が減り、不公平をもたらしてしまう。ましてや、10日後あたりにほとんどの中学校で期末試験を控え、特に中3の子どもたちに「先生、勉強しに来てもいい?」などと言われれば、冷たくも断れず、つい朝から教室を開け、勉強を見てしまう。
今日10日もその口である。そんな時、中3のある生徒から電話をもらった。
「今日は部活で疲れてしまったので、今日は休ませてください。その代わり、月曜日の朝から行ってもいいですか?」
と聞かれた。
「そうか、月曜日も休みだったなあ。困ったなあ。前日の11日は日曜日で、しかもPTAのおやじの会(私が言い出しっぺで、竹細工と手打ちそば作り体験)だから、こっちも疲れているだろうし、午前中は勘弁してもらうか……」
日頃から学校を休みがちな子ゆえ、
「いいよ。でも、先生も午前中はちょっと用事があるから――ごめん、**君。先生もちょっと歳なんで前日の疲れが残っちゃうんだ。嘘ついちゃいました。でも、君がこのホームページを読めば、その嘘はばれちゃうけど――午後1時半からにしてよ。いい?」
なんて返事をしてしまった。
」どうせなら、と思い、10日夜の中3の授業の時、
「月曜日、学校が休みだから、勉強に来たい者は午後1時半から駅前教室に先生がいるから来てもいいよ。なあ、***君に**さん。そうそう、**君も来てもいいよ」
と、中には半ば強制的なお誘いもかけた。
すると、この雨の中、声を掛けた生徒はもちろん、それ以外にも数名が勉強に来て、午後5時半頃までの「特別勉強会」となった。場所は、大学受験生も通う予備校である。
しんと静まり返った自習室では、カリカリと鉛筆を走らせる音と、ぺらぺらとページをめくる音だけが響く。そして、真剣な生徒たちの目。隣の個別指導室では、教える私の声と、それに答える生徒の声が交わされていた。
1、2年生の頃はやんちゃ過ぎて、クラス替えに四苦八苦していたあの生徒たちも、中3になり目標を自覚するようになると、やはり変わるものだと、しみじみ感じた。
この日の教室には、交流分析でいうところの「大人の自我状態(A)」が静かに立ち上がっていたように思う。
「やらされている勉強」ではなく、「自分で選び、ここに来た勉強」であったからこそ、子どもたちは感情的なCに流されることなく、現実を見据え、集中した時間を過ごせたのではないだろうか。
学習の場で起こるこうした小さな自己決定の積み重ねが、やがて思春期の子どもたちを自立へと導いていくのだと、改めて感じさせられた一日であった。
バイトで変わった女の子 2025年9月17日
彼女が中学1年生の時の担任教師から話を伺った。彼女は、ほとんどの生徒がO小学校からO中学校へ進学する中で、担任にとって初めて受け持つ転校生だった。自分から進んで同級生に声をかけるタイプではなかったという。
学年は2クラスで、彼女のクラスは男子15人、女子11人。気の強い女子が4人おり、2対2に分かれていた。その4人は自分たちの仲間を増やそうと、2学期頃から教師の目を盗んで多くの同級生をいじめ始め、それは3学期まで続いた。残念なことに、担任は当時そのいじめに気づかなかったという。ただ、2年生になってから、クラスの男子生徒たちが、いじめられていた子どもたちを庇い、支えていたことを知ったそうである。
担任は、彼女が前髪を伸ばしていることが気になっていたという。一方で、理科の教科委員としては、同級生に対して大きな声で指示を出すことができていた。国語と理科が好きだったが、成績はほとんどが「2」。定期試験でも、得意だと言っていた国語と理科でさえ、50点満点中20点台が多かった。特に英語と数学が苦手だったが、プライドが高く、「できない自分」を知られるのが嫌で、分からなくても誰にも質問しなかったという。好きな国語を含め、英・国・数の毎日の課題は負担が大きく、居残り勉強になることもあった。
思っていることを言葉にするのは苦手だったが、決して気が弱いわけではない。負けず嫌いで、優しい子だった。小学校ではテニスをしていたが、本校にはテニス部がなく、次に希望した吹奏楽部もなかったため、やむなく卓球部に入部した。しかし、気の強い女子とペアを組むことになり、お互いに欠席が多く、ほとんど練習できないまま試合に臨んだ。結果は言うまでもない。その後、別の気の強い生徒が入部し、ペアを組めなくなったことで、卓球部を退部した。テニス経験があったため、卓球のセンス自体は良かったという。
2、3人の親しい友人はできた。彼女の優しさに惹かれたのか、勉強が極端に苦手な男子生徒が頼ってくるようになり、その関係もあって、彼女自身が仲間外れになることはなかった。
2年生のクラス替えで、彼女のクラスには気の強い女子はいなくなった。しかし、いじめられていた子どもたちを引き続き支えようとしたためか、これまで彼女を支えてくれていた男子生徒の多くが別のクラスになってしまい、再び「転校生」のような孤立感を味わうことになった。唯一の救いは、仲の良い友人の一人が同じクラスになったことだった。大好きな理科の教師が担任になったが、苦手な男性教師でもあった。10月、彼女はついに不登校となった。
11月、島田市で行われた県教育委員会主催の合同相談会で、彼女の両親が私たちの相談ブースを訪れた。その数日後から彼女は、当フォーラムのグループが運営する予備校に通い始め、在籍中学校の出席認定を受けながら学習を続け、県立高校通信制課程へ進学した。この間、当フォーラム主催の月例野外活動や長期休暇中の交流合宿にも何度か誘ったが、彼女が参加することは一度もなかった。
ところが高校1年生の夏休み前、突然彼女が私のもとを訪れた。店員募集のチラシを手に、「コンビニのアルバイトをやりたい」と相談してきたのである。ご両親からも驚きの連絡が入った。
私は「いいじゃないか、挑戦してみたら」と背中を押しつつ、「ただ、その前髪は切った方がいいと思う。それから、お客さんには無理をしてでも笑顔で挨拶しようね」と伝えた。
それから一か月ほど経ったある日、彼女は初めて生き生きとした表情で予備校に入ってきた。
「先生、わたし、知らないお客さんに『あなたの笑顔に元気づけられたよ。ありがとう』って言われたよ」
そう話しながら、嬉しさに目を潤ませていた。
交流分析の視点から見ると、彼女は長く「適応した子ども」の自我状態で生き、失敗や拒否を恐れて自分の欲求を抑えてきたと言える。しかし、アルバイトという現実的な対人関係の場で、笑顔と挨拶を通して他者から肯定的なストロークを受け取ったことで、「自由な子ども」と「大人」の自我状態が活性化した。その体験が、彼女自身の価値感覚を内側から変え、自己肯定感の回復へとつながったのである。
日本語補助指導のボランティアに参加した高校生の心理変化 2025年9月15日
当NPO法人静岡県教育フォーラムでは、長きに渡って県立静岡中央高校通信制高校生の学外におけて学修団体として、当該高校の生徒が当フォーラムが行う事業にボランティアとして36時間以上参加すると、総合学習として1単位が認定される事業に参加している。
今年度当フォーラムの虹の架け橋菊川小笠教室で、日本語の補助指導ボランティアとして6日間参加した17歳の女子高校生の心理変化である。
2025年7月9日ボランティア初日に採った心理テストの分析である。
人目と評価を気にしすぎて、身の回りの全てに対して気を遣う、とても繊細で傷つき易い人である。協調性に富み、慎重で、周囲の意見を大切にする反面、自信がなく、「どうせ自分なんか」と常に思い、強いコンプレックスを抱えている。責任感や優しい気遣い、分析力や判断力は適度にあり、自分の考えを持っているが、なかなか表に出せない。必要以上に気をつかってしまうため、自分の思った通りに行動できない、感情を表せないことが多い。本音を語り合ったり、周りを気にせず楽しむのが苦手かもしれない。自分を抑えすぎるところがあるため、発散のできる何かを持たないとストレスが溜まってしまう。そんな高校生でした。

ところが、6日間虹の架け橋菊川小笠教室で、日本語の補助指導ボランティアとして参加した8月18日に採った心理テストの分析では、
NP(母性)とFC(感性)がとても高く、思いやりがあってとても世話好き、いつも笑顔を絶やさない、楽天家タイプに変化した。中程度のCP(父性)で特に人と衝突することもなく、人付き合いは良好。年上からも可愛がられ、年下からは相談を持ちかけられ、常に周りには人が集まる。自分を失いこともなく、冷静さを持っていられる。しかし、高すぎるFCのため、わがまま・自分勝手な側面も見えるかもしれない。
と変化したのである。
即ち、僅か6日のボランティア活動で、菊川小笠教室の生徒達が彼女との別れを惜しむ姿に涙する位の感動を覚えた。それによって彼女の母性と感性が大きく成長し、人の気持ちに寄り添い、自然と人の世話をするようになり、且つ自分の気持ちを素直に出し、人との関わりを楽しみ、周りの人達も楽しめるようにする人間に成長し、自己肯定感が上がったのである。
交流分析的視点で見るならば、このボランティア体験は、過度に「適応した子ども」(AC)に偏っていた彼女が、他者からの肯定的ストロークを通して「養育的親(NP)」と「自由な子ども(FC)」を活性化させ、自己肯定感を回復していく過程であったと言える。
SNSにハマった女子中学生の自立 2025年9月13日
昨今の課題を象徴する事例である。彼女は小学5年生の2学期から不登校となり、小学6年生の1月に相談を受け、対応を開始した。詳細な成育歴の聞き取りと親子の心理テストから、コロナ禍の影響も重なった思春期特有の友人関係の困難、学力不振、そしてその背景要因を分析し支援を行った。その結果、3月には再登校を果たし、翌4月には中学1年生として新たな学校生活をスタートさせた女子生徒である。
ところが10月上旬、両親が再び対応に行き詰まり、相談に来られた。夏休み直前から彼女は自室に閉じこもり、入浴もせず、部屋は悪臭を放つほど荒れ、ごみ屋敷のような状態になっていたという。着替えや食事、おやつや菓子類まですべてスマホで指示し、両親は部屋の前に置く。彼女は指示されたタイミングでドア越しに受け取る。入口は支え棒や机で塞がれ、部屋に入ることもできなかった。
中学校には順調に進学し、毎日登校していたため、「みんなが持っているから」と母親名義のスマートフォンを渡した。しかし6月の定期試験では主要5教科を受けずに欠席。漢字の宿題をやっていないことを理由に、1学期末も3日間欠席した。通信記録を確認すると、6月頃からグループLINE、Instagram、YouTubeなどに深くのめり込んでいたことが分かった。夏休みに入ると生活は完全に昼夜逆転し、宿題には一切手をつけていなかった。2学期が始まり、友人たちは登校していたが、彼女だけは朝方に眠る生活が続き、登校できなかった。
10月下旬、両親と提携する寮のスタッフを交えて話し合いを行った。両親は「これ以上打つ手がない」と話され、彼女が家を出て寮生活を送り、自立を目指すことを確認した。11月1日正午、寮のスタッフ3名と共に自宅を訪れ、両親の同意のもと、女性スタッフが彼女の部屋を開け、話し合いが始まった。途中から両親も加わり、1時間半余りの対話が続いた。
彼女の要請で、途中から私も部屋に入った。そこは菓子類のごみで床が埋め尽くされ、机の上には教科書や副教材、ノートが乱雑に積み重なった、まさにごみ屋敷だった。座る場所もなく、入口に立ったまま話を聞いた。彼女は泣きながら、「ひげぐま先生も、私は寮で生活を立て直した方がいいと思いますか」と問いかけた。私は「この状態を見れば、それしかないと思う。こちらの寮のスタッフに君をお願いしたい」と答えた。彼女はようやく決意し、寮に向かう準備を始めた。
約1時間かけて入浴し、その間に両親は寮生活に必要な身支度を整えた。
寮での生活は、朝6時起床、ラジオ体操から始まる。水曜日は朝食当番、他の日は農作業。7時15分朝食、8時から清掃、9時から散歩または寮生ミーティング、10時の朝礼後は学習時間となる。午後も学習や運動、班活動が続き、17時から自由時間、18時15分夕食、19時から日記記入、21時半消灯という規則正しい生活である。彼女は自らの意志でスマートフォンを持ち込まず、テレビや洗濯の予約などで時間を過ごした。土日祝日も役割分担があり、生活リズムは保たれた。
この間、毎月在籍中学校の出席認定を受け、寮の様子はスタッフから定期的に報告された。彼女はすぐに仲間と打ち解け、学習や農作業、班活動にも前向きに取り組んでいる様子だった。両親も毎月面会に訪れ、回復の過程を見守った。規則正しい生活が、少しずつ彼女を立ち直らせていった。
翌年3月、5か月に及ぶ寮生活を経て、彼女はSNS依存の状態から脱却した。内科的治 療を継続しながら、5月の連休明けには在籍中学校への再登校を果たした。
交流分析の視点から見ると、この事例は、SNSによって現実逃避的な「適応した子ども」(AC)に固定されていた自我状態が、生活構造と役割を伴う寮生活を通して「大人」(A)と「自由な子ども」(FC)を回復し、自立に向かって再統合されていった過程であると言える。
寮生活でゲーム依存から脱却した高校生の話 2025年9月12日
8月8日、彼の母親が県教育委員会社会教育課主催の合同相談会に来られ、相談を受けた。話を聞くと、彼は中学1年生の後半から不登校となり、中学2年生では一度再登校したものの、中学3年生で再び不登校になっていた。
父親のDVに耐えきれず、彼の小学校入学を機に、母親の実家がある街へ緊急避難していた。そのため、父親は彼らの居場所を知らず、以後一切連絡も接触もない状態であった。彼は「父の不在」という環境で成長してきたのである。
その3日後の8月11日、母親から改めて対応の相談を受け、8月20日に自宅を訪問し、初めて彼と対面した。本人の希望で、私と二人きりで話をすることになった。小学校時代から同級生による執拗ないじめを受けてきた経験から、将来は有名になって同じような子どもたちを救いたいという思いを抱く一方で、FPSの戦闘ゲームに没頭し、ゲーマーとして生きていきたいという夢も本気で語っていた。
「中学3年生になった今、高校はどうするつもりか」と尋ねると、経済的理由から県立普通高校を希望しているという。そこで、まずは点数にこだわらず、9月初めの学力調査試験を受け、9月25日を目標に再登校し、その後の定期試験で結果を出すために勉強を始めることを提案した。彼はこれに同意し、体験授業を経て、当グループが運営する予備校の中学部に入学した。特に苦手だという英語と数学について、定期試験範囲の単元を受講することになった。
しかし、週1回のメンタルトレーニングと週2回のカウンセリングを行いながら状況を見ていくと、学力調査試験は別室受験もできず、予備校の授業もわずか2日間、しかも90分の授業を通して受けられない状態だった。そこで9月27日に再度訪問し、生活習慣の立て直しを目的に、提携する寮で共同生活を送りながら自立を目指すことを提案し、3日後に返事をもらうことにした。
3日後の12時半、寮のスタッフと共に自宅を訪れ、本人と話し合った末、まずは1か月の体験入寮を決断した。彼はゲーム仲間に別れのメッセージを送り、パソコンを閉じて机の引き出しにしまい、寮のスタッフと共に家を出た。
寮での学習は在籍中学校の出席認定を受けた。生活は、朝6時起床のラジオ体操から始まり、朝食当番または農作業を行い、7時15分に朝食。8時から清掃、9時から1時間の読書、10時の朝礼後に学習時間となる。午後も学習、農作業、運動、班活動が続き、夕食当番や日記記入、消灯まで規則正しい一日が繰り返された。パソコンの使用も可能であったが、彼は自ら使用禁止を申し出た。ゲーム中心だった生活は、本人が驚くほど大きく変化した。
1か月後、「自宅に戻ると再びゲームに依存してしまうから」という理由で、翌年2月までの寮生活延長を自ら希望した。その後、私が関わる「国内留学・地域魅力化プロジェクト」に参画する、寮を併設した県立高校を受験することになった。
結果、彼は無事に合格し、寮生活を通してゲーム依存から完全に脱却し、充実した県立高校生活を送ることとなった。
交流分析の視点から見ると、ゲームに依存することで現実から退避していた「適応した子ども」(AC)の自我状態が、寮生活という生活構造と役割を持つ環境の中で「大人」(A)の自我状態を回復し、主体的な選択によって自立へと向かった過程であったと言える。
学校に行けない不安 25年8月26日
彼女は、地域でトップの進学高校に通う1年生である。高校入学後、初めて迎えた中間試験を終えた頃から、これまで感じたことのない強い不安感に襲われ、学校に行けなくなった。母親から相談を受け、私は彼女と面談することになった。
不登校になった子どもたちに理由を尋ねると、多くが「分からない」と答える。もちろん、その時点で自分の気持ちを表現する語彙を持っていない場合もある。しかし実際には、多くの子どもは理由に気づいている。ただ、それを認めたくないために口にしないことも少なくない。
気付いた自分の弱さや不安をクラスの同級生にさらけ出し、自尊心が傷つけられることへの恐怖や不安から、学校に行けなくなるのである。
特に中学校時代、トップクラスの成績を収めてきた子どもたちは、無意識のうちに勉強ができない同級生を見下してきた側面がある。ましてや不登校の生徒に対して、「少しおかしいのではないか」と感じてきたこともあっただろう。
人は一般に、「自分が思っていることは、他人も同じように思っている」と感じやすい。また、自分が集団の中で「真ん中より上」にいるという感覚が、安心感の基盤となる。集団の中で下位にいると感じることは、多くの人にとって耐え難いことである。これが人の心理の一つの原則である(桑島隆二著『脇役になれない子どもたち』参照)。
各中学校のトップ層が集まる地域有数の進学校では、「真ん中より上」にいるという安心感を持つこと自体が難しい。さらに、過去問演習を中心としたパターン学習で入試を突破してきた子どもたちは、「自分は学力がある」と思い込んできた。ところが、新共通テスト時代の高校教育では、思考力・読解力・判断力・表現力が求められ、授業理解も容易ではなく、定期試験で高得点を取ることも難しい。
憧れの制服に身を包み、期待に胸を膨らませて臨んだ最初の中間試験で、彼女は現実の自分の立ち位置を知る。自分の得点と平均点を比べた時、「真ん中より上」どころか、かつて見下してきた同級生と同じ位置に自分がいることに気づく。
授業も理解できず、指名されても答えられない。「できない自分」をクラスでさらけ出すことへの不安が募り、学校を休み始める。すると今度は、かつて自分が不登校の生徒に向けていた「おかしいのではないか」という視線を、今度は自分が向けられていると思い込むようになり、ますます学校に行けなくなる。まさに、前述した心理の原則がそのまま表れた状態である。
私たちが行う不登校解消プログラムは、まず「学校に行けない不安」を言語化し、正体の分からない不安を明確にすることから始まる。その上で、例えば学習が理解できるようになる支援を行い、不安の原因を一つずつ取り除いていく。あるいは、それが思い込みであると気づかせ、認知の枠組みを変えていく。
同時に、年齢に応じた生活習慣、すなわち同級生と同じように学校に通い、学ぶ生活を取り戻すための心理的訓練を行う。仕上げとして行う交流合宿では、同世代の仲間と群れ集う中で自分を知り、他者を知る体験を重ねる。こうした過程を通じてコミュニケーション能力と精神的成長を促し、不登校を解消していく。彼女は、その一例である。
彼女は「できる自分」でいなければ価値がないという条件付き自己肯定に縛られ、〈批判的な親〉の自我状態が強く働いていた。不安を言語化し、〈大人〉の自我状態を育て直すことで、現実を受け止めながら再び前に進む力を取り戻したのである。
17~18歳の高校生の心理変化 2025年8月14日
当NPO法人静岡県教育フォーラムは、県立静岡中央高校通信制課程の「学外における学修団体」として当該課程の高校生が、当フォーラムの日本語を母語としない子どもたちの日本語初期支援や不登校・ひきこもりの青少年の野外活動支援に、ボランティアとして一定時間従事すると高校の単位として認定される事業に、かれこれ20年以上携わっている。
2024年度のその事業に参加した17 歳の女子高校生の心理変化である。彼女はまず7月3日から7月12日まで、菊川小笠教室で日本語を母語としない子どもたちの日本語初期支援の補助をボランティアとして参加頂いた。その時の初日と最終日の心理分析が以下の通りである。

7月3日
NP(母性)とAC(順応性)がとても高く、優しい人だが、イイ子ちゃんでいたい気持ちも強く、常に人の顔色をうかがっている人と言える。人が自分をどう思っているかに敏感で神経質になる面もある。与えられた仕事などはまめにこなしていくタイプだから、ある程度重宝がられる。
しかし、中程度のFC(感性)で気持ちの切り替えはそれほどうまくないので、ストレスを溜めやすい人ととも言える。自律神経失調症の人に多いパターンである。
他人のために使うエネルギーを自分のためにも使おう。まずは、気分を素早く切り替えるようにする。「不快な気持は3分まで!」と自分に言い聞かせて、毎晩寝る前に「今日、こういういいことがあった」と一日を思い返す「よかった探し」をする(CP-父性とA-知性とFCの成長)。きっといい夢が見られる。
7月12日
NP(母性)とA(知性)、AC(順応性)がとても高く、CP(父性)とFC(感性)が中程度から、物事を冷静に捉えることができるが、事実だけを重んじるのではなく、義理や人情にも厚い人である。また、相手の助言を素直に受け入れられる心も持ち合わせている。相談相手として重宝されるパターンである。
ただ、とてもいい人だが、ACが高すぎて、強引さや最後のひと押しに欠ける側面がある。だから、このタイプが友達であったり、上役の場合はやきもきさせられるかもしれない。
FCを上げるように心がけるとよい。自分の言いたいこと、したいことを口に出せるようになる(FCの成長)と、ACも自然に下がり、人からもっと頼りにされる、とアドバイスした。
上記の彼女のエゴグラムには、父性(CP)と感性(FC)が異常に低く、順応性(AC)が異常に高い、という不登校生にみられる特徴がそのまま出ており、不登校の素因が解消されていない状態であった。彼女からもその旨の相談を受け、8月13日から15日に長野で行われた交流合宿に誘い、その解消を試みた。
8月13日、この日の心理分析は7月3日(黄色のエゴグラム)とほぼ同じだったが、交流合宿初日にして既に感性(FC)が高くなり始めていた。
そして、僅か2日後の8月15日の水色のエゴグラムに、解消プログラムの成果がはっきりと表れた。
即ち、FC(感性)がとても高くなり、元々高いNP(母性)から思いやりがあってとても世話好き、いつも笑顔を絶やさない、楽天家タイプになり、こうなると好意を寄せる人も多くなる。
元々中程度のCP(父性)で特に人と衝突することもなく、人付き合いは良好。年上からも可愛がられ、年下からは相談を持ちかけられ、常に周りには人が集まるように変わった。A(知性)も上がり、自分を失いこともなく、冷静さを持つようになった。
しかし、FC(感性)がとても高くなったため、わがまま・自分勝手な側面も見えるかもしれない。今の良好な人間関係を続けて、毎日を楽しく過ごしていきたいなら、常にAを活用して自分自身を見つめる目を養うように、アドバイスした。
そして、その1年後の2025年8月11~13日、前年と同じペンションを拠点に行われた交流合宿に、彼女は再び参加した。
その初日、合宿の拠点、小淵沢に向かう途中で採った心理状態(黄緑色のグラフ)は、1 年間私達と交流が全くなかったことから、元々の彼女の心理状態(2024.7.3)・黄色のグラフに近いグラフになっていた。
即ち、2025.8.11の心理分析。
NP(母性)とAC(順応性)がとても高いため、他人への配慮がある分、人から恨みを買うことは少ない。むしろ、いい人過ぎていいように利用されることの方が多い。また、高すぎるACで自分の言いたいことがどうしても言えず、後悔することも多い。お店で商品を勧められると断れず買ってしまう。
ところが、昨年度に増して参加した仲間たちの交流を深めた合宿で、彼女はまた大きく変化した。
即ち、2024年8月15日の水色のグラフと、2025月8月13日の橙色のグラフを見て頂きたい。
NP(母性)がとても高いので、常に自分のことは後回しにしても、他人の気持ちや立場を考えて行動する。それでいて適度なCP(父性)から、しつけもでき、ものすごく世話好きで、子育て上手。また、FC(感性)とAC(順応性)もほどほど高いので、遊び心を知りながら、中程度のA(知性)も加わり羽目をはずすことなく、他人の意見も聞きいれる。
理想的な行動をとる人で、人間関係の問題は少ない。注意点を強いてあげるならば、お節介になりすぎる、と分析した。
この状態を維持するカウンセリングを続ければ、彼女の鬱は解消する。そのためにも、私は彼女に、CP(父性)、NP(母性)とFC(感性)の長所と短所をきちんと理解し、自分に多くあるNPと成長してきたCP・FCのよいところは何か見究めて、とアドバイスをした。
母親に甘えられずに育つ 2025年6月16日
ご両親はともに国家公務員総合職、いわゆるキャリア官僚であり、研究と実務に追われる多忙な生活を送っていた。彼女は2年半前、小学5年生の時に、母親の研究留学に同行し、1年間イギリスで生活した。日本人学校ではなく現地の小学校に通い、毎晩母親から英語を教わり、授業も友人との会話もすべて英語でこなした。その結果、小学生ながら英検2級を取得した。

帰国後、「英国帰り」であることを妬まれ、いじめを受け、不登校となり相談を受けた。その際に採取したエゴグラムが上記である。
A(知性)とAC(順応性)が特に高く、CP(父性)、NP(母性)、FC(感性)が著しく低い。現実的で、テキパキとした身のこなしと高い判断力により、周囲から一目置かれる存在である。一方で、仕事や努力を評価されても「いえ、私なんか」と謙遜し、周囲を黙らせてしまうことがある。謙遜のつもりでも、相手には嫌味や真面目すぎる印象を与えかねず、努力が正当に評価されないばかりか、対人関係がぎくしゃくする可能性もある。
そこで、能力を認められた際にはFC(感性)を意識的に使い、笑顔で明るく応じること、時にはおどけてみせること、またNP(母性)の要素として、褒められたら褒め返すといった思いやりの行動を心がけるよう助言した。そうすることで、自身の中に新たな可能性が芽生えてくると伝えた。
しかし、気になったのは、12歳の女の子としてはNP(母性)が極端に低い点である。一人っ子であり、思春期を迎えていることを考えると不自然である。しかも、1年間母親と行動を共にする生活を送っていたにもかかわらず、心理的には「母親に甘える」体験が乏しかったのではないかと感じられた。CP(父性)とFC(感性)の低さ、そしてAC(順応性)の高さが重なり、不登校という形で表面化したと考えられた。
不登校の解消は、「年齢に応じた生活習慣」を整えることから始まる。彼女には学校の時間割と「生活管理シート」を渡し、1日の生活を記入させ、自己管理を促した。もっとも、約1年に及ぶ不登校生活から抜け出すのは容易ではない。本人およびご両親と相談の上、提携する寮で1週間の寮生活を体験させることにした。
寮母の観察から、NP(母性)の低さの背景が明らかになった。入退寮時の母娘の様子を見た寮母が母親に尋ねたところ、母親自身が厳しい親のもとで育ち、儒教的価値観が深く身についていたため、子どもの甘えを素直に受け止められず、つい厳しく接してきたというのである。
一方、彼女は寮生活の中で、自発的に料理を手伝い、同じ寮の小学生と遊び、英語を教えるなど積極的に関わった。そのたびに寮母が褒めると、照れながらも満面の笑顔を見せた。夜になると寮母に甘えるように寄り添い、さまざまな話をして楽しんでいた。
彼女は、同性の母親に十分に甘えることができないまま育ったことが心の不安定さを生み、いじめを受けた際にそれを跳ね返す力を持てず、引きこもりへと向かったと考えられた。
親の過保護は、子どもの自己を安定させる。
親の過干渉は、子どもの自立を阻害する。
彼女の不登校解消は、「年齢に応じた生活習慣」を自己管理することから始まった。3か月後には中学校教頭の協力を得て給食登校を開始した。多忙な両親が交代で付き添い、2か月目からは一人で登校するようになった。
彼女は一人でバスに乗ることもできず、電車での外出など想像もできない状態であった。イギリス滞在中も、短時間の外出ですら母親が必ず付き添っていたという。母親にとっては心配のあまりの行動だったが、彼女にとっては息苦しさと不満の原因でもあった。
そこで両親には、意識して彼女と一緒に楽しむ時間を作り、十分に甘えさせる関わりをお願いした。近場への外出や夜の団らんを重ね、安心感を育てていった。5か月後には、得意な英語の授業から参加を再開し、3月には他教科にも少しずつ出席するようになった。そして4月、新年度から完全登校を果たした。
NP(母性)を十分に受け取れなかった子どもが、過剰にA(知性)とAC(順応性)で適応しようとした結果、心の限界を迎えた姿である。交流分析的には、「甘える経験」によってNPが育まれ、自我状態のバランスが回復したことで、不登校の解消と自立への一歩が可能になったと捉えられる。
蛹からの脱皮に苦しむ男子 2025年6月6日
対応を始めてから2か月余りが経った5月20日、父親に学校まで送ってもらい、折よく担任の先生と出会うことができ、彼は4か月ぶりに授業復帰を果たした。
心理テストの結果は、中程度のCP(父性)と低いFC(感性)、一方でA(知性)とAC(順応性)が異常に高いという特徴を示していた。成育歴を詳しく聴くと、彼は4月生まれで体格も良く、中学校入学後、最初の定期試験で主要5教科がいずれも40点台(50点満点)、周りか称賛を浴び、一気に兄貴分のような存在として持ち上げられた。その評価に、本人は戸惑いを覚えていた。
加えて、第1子である彼には、両親や祖父母からの期待が一斉に注がれた。それに応えようと必死に勉強したが、範囲の限られた定期試験とは異なり、約1年分の学習内容を問われる1月の県の学力調査では、主要教科が軒並み40点を割ってしまった。
それを境に、勉強はもちろん、塾にもゲームにも手が付かない状態に陥った。友達から点数を聞かれても、無様な自分をさらけ出すことができず、不登校となった。周囲からは「学校に行けない変な子」だと思われているに違いない、という思い込みが、彼をさらに追い込んでいった。
中学校の先生の紹介で、当フォーラムを訪れた。いつものように、詳細な成育歴と心理テストを基に、不登校の科学的・心理的素因を整理したのが前段の分析である。
まずは「年齢に応じた行動」、すなわち学校に登校する行動を取り戻す準備として、不登校であっても登校している友達と同じ時間割で、提示した自立学習法により自宅学習を行わせた。併せて、当フォーラム独自の父性成長プログラムを実施し、「何のために勉強するのか」という目的を明確にしていった。
彼が語った将来の夢は、水質浄化の研究によって疫病を防ぎ、発展途上国の子どもたちの命を救うことだった。その研究を行っている国立大学に進学する。そのためには、まず高校進学を果たさなければならない。目的が具体化されたことで、彼は再び学校に向かう決断をし、授業復帰を実現したのである。
しかし、不登校となっていた4か月のブランクは大きく、理解できない授業が続く中、定期試験まで残り3週間という現実が迫っていた。一度「逃げて楽になる」不登校を経験してしまったが故に、登校するか否かの葛藤が生じる。
その葛藤を乗り越え、再び学校に向かわせる力こそが意志力、すなわち父性(CP)であり、その成長が不登校解消の鍵となる。
高いA(知性)とAC(順応性)に比してCP(父性)が未成熟であったため、評価の失速を自己否定として抱え込み、不登校に至った。将来目的を明確化し父性を育てることで、「逃避」から「選択としての登校」へと行動が転換したのである。
古代人の生活に触れる 2025年3月30日
目的
遠い昔の古代生活を体験し、自然とともに生きることを学ぶ。
日時
11月~翌年12月 第2土曜 午前9時~11時30分
場所
藤枝市助宗・さんかく山頂上
第1回 11月24日
たて穴掘り。地元農家のOさんがユンボで協力してくださり、参加者は鍬やショベルを使って、直径約2m、深さ約70cmの穴を掘った。Oさん、本当に助かりました。
第2回 12月8日
かや(ススキ)刈り。最初は危なっかしい鎌使いでひやひやしたが、次第に要領を得て、皆で何とか刈り取ることができた。
第3回 翌年1月26日
目柱・梁用の竹の切り出し。のこぎりの扱いはなかなか上手だった。ナタの背で枝を落とす方法を教えると、皆すぐに覚えた。
第4・5・6回 2月9日、23日、3月9日
支え柱を立て、斜め材を組み始める。設計図を見ながら、縄で縛って組み立てた。小学生の参加者は力が弱く、ここは大学生スタッフに多く手伝ってもらった。妻側の煙抜けの枠(入口上部)も作成。
第7・8回 4月13日、5月11日
いよいよ茅を葺き始めた。4等分に割り、節を取った竹で茅を内外から挟み、縄で縛る。中にいる子と外の子が声を掛け合いながら縄を通し、内側で縛っていく。ここでも大学生スタッフの力を借りた。
しかし茅が不足し、2日間で半分も進まず、屋根も薄い状態だった。
設計図の再確認と屋根材(茅)の確保を模索する中、雨天も重なり、6~9月は活動を休止した。
第9回 10月26日
山梨県上九一色村へ、参加者5名を乗せて茅刈りに出かけた。地元・藤枝市助宗でいちご農家を営むHさんが、トラックと草刈り機を持参して参加してくださり、屋根葺きに十分な量の茅(ススキ)を刈ることができた。
Hさんは、夏は冷涼な山梨県上九一色村でいちごの苗を育て、温暖な藤枝に移して成長させ、クリスマスケーキ用をはじめ、さまざまな用途のいちごを出荷している。そのHさんが、茅が群生する土地の所有者に今回の趣旨を説明してくださり、その方のご厚意により、今回の茅刈りが実現した。Hさん、ありがとうございました。
また、たて穴式住居周辺の茅も、さらにOさんが刈ってくださいました。Oさん、ありがとうございました。
そして、いよいよ次回は、たて穴式住居の完成と体験宿泊である。
第10回 11月3日・4日(日・祝、1泊2日)
3日は9時~15時まで、参加者とそのご父兄、協力者総出で屋根の茅葺きを行い、ついに完成した。
15時30分からは、屋根の茅葺きや、たて穴式住居での生活についてのお話を伺った。
講師:日本歴史学協会会員 М氏
参加者(小学生)2名は、都合により宿泊に参加できず帰宅。
17時からは、夕食作りとバクテリア生ごみ処理器づくり体験を行った。
指導:いなばを守る女性ネットワーク会員 Tさん
19時30分から、たて穴式住居で交流会。小学生3名、リーダーのМ君、そして私の5人で、たて穴式住居の夜を過ごした。少し寒かったが、多めに持参した毛布に包まり、温かいココアやお茶、***で暖を取りながら、マシュマロを焼き、菓子を食べ、古代人の生活に思いを馳せた。
22時には、疲れもあり全員就寝。
翌朝は、鳥のさえずりとともに目を覚まし、飯ごうで炊いたご飯とインスタント味噌汁、炭火で焼いたアジのひらきを囲んで朝食を取った。
8時頃、参加者のご父兄のお迎えで解散となった。
うっかり、皆に感想文を書いてもらうのを忘れてしまった。
※3日間の屋根葺きには、参加者5名のほか、大学生スタッフ、参加者のご父兄、地元農家の方々が手伝ってくださった。本当にありがとうございました。
※9月12日付「静岡リビング」トップページに掲載。
※11月3・4日の1泊2日古代体験の様子が、11月5日付『静岡新聞』朝刊第16面に、カラー写真入りで紹介された。
両社様、ご協力ありがとうございました。
完成したたて穴式住居は、その後も毎月1回は活用したが、風雨にさらされて傷み始め、約1年後に解体した。
前年には、アクティ森で陶芸用の土を譲っていただき、瀬戸川で縄文時代の方法による野焼きで、皿や壺づくりを体験した。火が消え、灰を払って覗くと、見事に割れた皿と壺が現れた。皆、とても残念がったが、気を取り直し、今回のたて穴式住居づくりへの挑戦へとつながっていった。
子どもたちの挑戦は、まだ続く。
次は、「おれっちの砦(ツリーハウス)」づくりである。

臨死体験 2025年3月23日
彼が当時小学校4年生の時、確か6月頃の出来事。朝激しい腹痛に襲われ、母親と共にK町のT医院に行ったところ、盲腸と診断され即、入院。翌日の午後、盲腸摘出手術になった。
手術は無事終わり、病室に戻り休養。確かおかゆみたいな味のない夕食(否、点滴だったか?)を頂き、看護婦さんに「何かあったらこのボタンを押して」と教えられたことをしっかり覚えて、眠りについた。仕事を終えた母親が、彼の睡眠中に付き添いに来た。
夜中の12時頃、彼は激しい呼吸困難で目が覚めると、母親は昼間の仕事の疲れで彼の布団に顔を埋め、ぐっすり寝入っていた。彼は息苦しい中、看護婦さんの言葉を思い出し、必死でボタンを探し、力の限りそのボタンを押した。しかしその直後、あの激しい息苦しさが静かに無くなり、スーッと意識も消えていった。
1時間位経った後(彼の母親が言うには)、周りをポリエチレンのシートに包まれ、シューシューと酸素吸入の音がし、自分の瞳孔を確かめるT医師のぺンライトの光が眩しくて、思わず目を閉じ、顔を背けた自分を、彼は記憶していた。
母親の話では、その間、彼の心臓は一時停止していた。T医師や看護婦さん達が必死で酸素吸入をしながら、彼の心臓に電気ショックを与え、心臓マッサージを繰り返した結果、彼の心臓は蘇生した。彼は意識を取り戻した。
原因は風邪による腹痛を盲腸と誤診し(勿論、丁重な謝罪があった)、手術により急性肺炎を引き起こし、呼吸困難に陥った。彼は臨死体験をした。
この経験から「死」とは、あのように何の苦痛もなくなり、安楽で平穏な気分のまま意識が遠のき、消えていくもの、と彼は思った。
しかしこれを、シェリー・イェール大学教授(「ⅮEATHイェール大学で23年連続の人気講義『「死」とは何か』の著者」)流に言えば、こうなるのだろうか?
現にあなたは生きているのだから、この臨死体験から「死」をそう捉えているものの、それは「死」ではない。なぜなら、身体(ボディ機能)は心臓がこののち蘇生され、再び血液が循環したのだから、冷凍保存された体(人間に可能かは分からない)と同じで、「死」に至っていないのだろう。また、一時的に意識(パーソナル機能)がなくなっ(停止し)たが、心臓の蘇生と共に意識も蘇生されたのだから、夢も見ず眠っている状態と同じで、意識(パーソナル機能)も、まだ「死」に至っていなかったのだろう、と。
しかし、このような臨死体験をした彼の心臓の血管には、47年後労作性狭心症による2本のステントが入っている。この2本のステントが、何故自然な自分の心臓の死を妨げているのだろうか?そう、神様はこれまでの自分がしてきたことにまだまだ不満足で、そのステントで自分をまだ生きながらせ、もっと社会に貢献しなさい、と要求しているように思うと、彼は語った。
虐待を受けて育った母親の苦悩 とその長女の話 25年3月11日
母親は幼少期から、実父より酷い虐待を受け、他の兄弟とも差別されて育った。実母は夫を恐れながらも、陰で娘を支え続けた。母親はそのような環境の中で、まさに雑草のように生き抜いてきた。
結婚し長女が誕生したが、翌年には年子で次女が生まれた。非協力的な夫との関係も次第に悪化し、子育ての負担は増していった。心身ともに追い詰められ、鬱状態に陥った時期もあったという。
その長女が中学3年生で不登校となり、私のもとへ相談に来られた。親子3人の心理テストを行ったところ、彼女は理想が高く、他者への思いやりがあり、知性も高く現実志向で、適応力もかなり備えていた。
一方で、物事を悲観的に捉えやすく、日常を心から楽しめず、強いストレスを抱えている様子が表れていた。自分の感情を抑え込み、「学校に行かない自分を、皆は変だと思っている」と思い込み、不登校に至っていた。
父親の心理テストからは、他者への共感性が乏しく、頑固で理屈っぽく、自信過剰な傾向が読み取れた。母親の心理テストには、高い父性と、雑草のように生き抜いてきた強さ、同時に周囲への過剰な気遣いと、晴れない気持ちを抱え込み悩み続ける姿がはっきりと表れていた。三人とも知性は非常に高いが、母性と感性が低く、客観的情報を重視するあまり、人間関係は殺伐とし、互いの感情を押し殺した家庭であることがうかがえた。
母親の申し込みで対応を開始することになったが、初回のカウンセリング当日、彼女は来なかった。電話で確認すると、彼女は「勝手に予約を決めたこと」に強く怒り、「私のことを大切にしていない。だから行かない」と言って自室に閉じこもっているという。母親はその態度に腹を立て、家の壁に八つ当たりした。せっかく相談を申し込んだのに通えなくなったらどうしよう、夫に内緒で申し込んだことが知られたらどうなるのか、不安で居たたまれなかったと語った。
このような母親の状態は初めてではなかった。娘への対応で感情的になり、怒りを抑えきれず手を上げたり、物に当たったりすることが度々あったという。特に彼女が不登校になってから、その頻度は増えていた。母親は「心の中が、抑圧された怒りで一杯だ」と語った。夫との関係も、さらに悪化していった。
そのような環境で育った彼女は、幼児期、自分の頭を壁に打ちつけることがよくあったという。自分を責める行為だったのではないか、と母親は振り返った。
数日後、彼女は私とじっくり話すことができ、納得した上でカウンセリングを受け始めた。母親のカウンセリングも同時に開始した。彼女の祖父が交通事故に遭い、偶然加害車に同乗していた同級生の虚偽の証言を知ったことが、強い不信感のきっかけとなった。その後も、事故を起こした父親を正当化する同級生の姿を見ることが耐えられず、学校に行けなくなったという。
成育歴から、彼女には幼少期の基本的信頼感の欠損、あるいは未成熟があると判断された。そのため、同級生の嘘の証言に対して強い嫌悪感と不信感を抱き、不登校に至ったと考えられた。
彼女は友人2人と共に家庭教師を利用し、学習は継続していた。数か月後、志望校を同じくしていた同級生の存在に悩み、再び相談を受けた。9月の学力調査で、その同級生が誇らしげに語る点数を友人から聞くと、自分とほぼ同じ点数だった。
10月中旬、地域魅力化プロジェクトの国内留学支援に携わっていた私は、母親の同意を得て、寮のある県立高校のオープンハイスクールに、1泊2日で彼女を連れて行った。学校生活と寮生活を体験し、「先輩が後輩の面倒を見る」伝統のある寮にも魅力を感じた彼女は、生徒募集担当の教員とも面談し、受験を決意した。
その後、彼女は学習に集中し始め、翌年2月の推薦入試に見事合格した。両親揃って当フォーラムの事務所に来られた。にこやかな父親の笑顔が印象的だった。
高校入学後、彼女は温かい教師や先輩、同級生、さらには地域の人々に支えられ、充実した高校生活を送った。折に触れて高校から彼女の成長の報告を受けた。そして3年後の初冬、募集担当の教員から、学校推薦型入試で国立大学経済学部に合格したとの連絡が届いた。
交流分析の視点では、母親の未処理の「抑圧された怒り」が家庭内交流に影を落とし、長女はそれを感じ取って自分の感情を抑える「順応した子ども」として生きてきたと捉えられる。信頼できる大人との再交流により、彼女は自分の感情を回復し、自立への一歩を踏み出したのである。
中学校3年時皆欠席が、高校は皆出席で卒業 2025年3月11日
この三月は卒業時期。今日、県外の県立高校を卒業したA君が両親とともに来てくれた。高校の地元の町のミカンジュースを頂いた。
三年半程前、相談を受け対応したが、当フォーラムで出席認定を受け勉強していたものの、終にはB中学校には通えなかった。しかし、地域魅力化プロジェクト国内留学支援を行っていた私は、そんな彼に県外2県の県立高校を紹介した。父親と共に両県の高校に行き、その一つ県立C高校進学を決め、推薦入試に受験し合格した。
親元を離れた寮生活は、彼の自立を促進した。まず一年生の時、一日も休まず皆出席で、学校と両親を驚かせた。しかも、テニス部に入り、テニス部も休むことなく頑張った。
小学校の時からあの中距離日本代表を生んた陸上クラブに所属したこともあり、二年の体育祭ではリレーでアンカーを走り、二人を抜き、優勝。ヒーローとなった。おまけに、地元の彼女もできた、と夏休み帰省した時に来てくれた。
二年も引き続き、皆出席。三年ではテニス部部長も務めあげ、地域芸能参加で表彰もされた、という。一日病気で遅刻したが、結果、高校三年間、皆出席となった。
そして、彼の地元の大学の経営学部を受験。合格して、兄と同様、大学に進んだ。
ある少女の旅立ち 2025年3月10日
昨夜9時45分、14歳の少女が、(彼女曰く)”自分を鍛え直すため”、海外(英語圏)留学に旅立った。
今年8月15日、彼女の両親から依頼を受け、般若のTシャツ姿でしゃこたんのスカイラインできた伊藤幸弘さん(当時、元暴走族「相州連合」2代目総長・非行カウンセラー)と落ち合い、彼女の家に向かった。彼女の家では、彼女と外国籍の友達と、それぞれの両親が待っていた。車中、伊藤さんから「今日は私が話をしますので、先生(私)は、黙ってて、私の呼びかけには『はい、はい』と答えて下さいね」と言われた。私からは伊藤さんに、彼女たちの様子を伝えた。学校をさぼっては、男の子たち5,6人従えて、真昼間バイクで学校のグランドを走り回る。夕方からは、その友達や3,4人の女の子たちも加わり、順番に仲間の家に集まり、煙草を吸うは歌を歌うは、駄弁り合う。
家に着くと、伊藤さんと私を挟み、左側に彼女とその友達、右側にそれぞれの両親が向かい合った。早速伊藤さんが「まずは包み隠さず、お互いに言いたいことを聴かせてください。」と言うと、堰を切ったようにバトルが始まった。10分位経ったか、彼女たちが「くそじじい、くそばああ」と叫ぶと、伊藤さんはドーンと座卓を思いっきり叩いた。一瞬の沈黙が起った。彼女たちに向かって「てめいら、言葉を慎め!いくら言いたいことを言えと言ったって、礼儀をわきまえろ!この先生(私)はじっと黙って我慢してるが、俺より怖いぞ。(私、「えっ?」)自分の親に向かって、『くそじじい、くそばばあ』とはなんだ!」彼女たちは震え上がった。般若のTシャツの伊藤さんの罵声に、それより怖いと言われた私を見て。
お互いに日頃の不満や言い分を出し切った後、伊藤さんが仲裁に入った。「いくら寂しくても、真昼間学校をさぼってバイクを乗り回す、中学生の分際で煙草を吸う、これはよくないぞ。なっ先生。」私、「っはい」。彼女たちの両親は、「えっ!寂しかったの?」と口を揃える。
伊藤さんはその両親たちに向かって、彼女たちの気持ちを代弁した。共に共働きの親で、夕食はひとり黙って食べる毎日。学校であったこと、友達としたこと、嬉しかったこと、悲しかったことを話す相手がいない。そんな寂しい依存心から攻撃的な行動に出てしまった。
彼女たちの両親はやっと、娘たちの気持ちを理解した。
そして、彼女たちは伊藤さんと私宛に、「①携帯電話は5千円以上使わない。②煙草は吸わない。③勉強する。以上、一つでも守らなかったら、伊藤さんと私の如何なる指示に従う。」旨の念書を書いた。両親たちには、できれば両親とも、どちらか一方でも、夕食は一緒に食べるよう仕事を調節してもらった。
彼女は仲間たちとの関係を遮断するため、三つ離れた町の寮に入り、学校の出席認定を得て勉強を始めた。母親は毎日寮に来て夕食を共にし、週3日は泊まってもらった。元来自頭がいい彼女は、教科書と副教材で勉強し、解けなかった問題は解けるようになるまで何回も解くという、彼女のスタイルを身に付けていった。大学生のリーダー二人を、毎日交代で付けた。
ところが、11月になって彼女が煙草を吸ったことが発覚した。伊藤さんは私に判断を預けた。そうなると、私の如何なる指示に従わなくてはなり、寮を飛び出し市内に逃げた。親に捜索願を出してもらい、警察と一緒に探した。ようやく見つけたが、彼女は寮のトイレに逃げ込み、鍵を閉めた。警察官の立ち合いの元彼女に、得意な英語を活かした提携する語学学校の海外留学で説得した。1時間ほどで彼女は鍵を開け出てきた。一緒に活動したリーダー二人に涙で見送られ、伊藤事務所のスタッフと東京に向かった。
この2ヶ月半で彼女は随分変わった。ご両親に対する態度以外は。これからの海外留学9ヶ月で、彼女はまたどれだけ成長してくるか楽しみだった。
中学生であることから3か月毎の帰国は許されたが、彼女は翌年4月まで帰らず、語学学校で勉強した。進学能力試験を受け、地元で一番の高校進学が内定した。部屋に荷物を残し、帰国した。
ところが、帰国すると彼女は親元での生活が恋しくなり、なかなか海外留学に戻らない。結果、海外高校合格内定を蹴り、中卒で行ける専門学校進学を決め、残した部屋の荷物の処分を現地事務所に依頼した。
2年で国家資格を取った。でも、それでは飽き足らず、彼女は大学進学を望んだ。しかし、大学進学となると、あと1年の高等教育機関在籍と高校単位取得が必要になる。そこで、提携する通信制高校で1年で高校修了の74単位を取得した。それこそがむしゃらに頑張った。
母親から
「うちの〇〇(彼女の名前)は、食事とお風呂しか部屋を出ない。ずっと部屋に居て、外出もしない。先生、ひきこもりになっちゃった。」
と電話をもらった時があった。すぐ彼女の携帯に電話すると、
「せんせい!久しぶり!」
と、ひきこもり声にあらず、明るい声。
「おい、毎日毎日、食事と風呂しか部屋から出ず、何してんの?母さんが心配して、おれんとこに電話をしてきたよ。」
と伝えると、
「当たり前じゃん、せんせい、1年で74単位だよ。毎日毎日、教科書を読んでレポートを書く。時間がなくて、食事や風呂の時間も、寝るのももったいない。んたく~。いい加減、娘を信じてよ。」
と返ってきた。
「しょうがない。君の過去が過去だけにね。」
とつまらんことを言ってしまって、反省。
「いいよ~。せんせい、私、○○大学で心理学を勉強するよ。」
とびっくり。その旨を母親に伝えると、
「娘を信じない私達も反省しなくてはねえ。」
と笑った。
その言葉通り、○○大学に進学し、社会福祉士の資格も取り、今は1女児のママとして働いている。
Yくんの頑張りとサンタさん 2025年3月9日
高校生のY君。夏休み当初は国語のみの1日3時間の授業計12日の予定を、3日延長! 読解を克服したいと相談して来たので、勉強の仕方を教えた。
まずは、文の理解に主語・ 述語の把握。次に、3種類の段落構成(類比・対比・因果)を教え、それを元に段落毎にキーセンテンス(作者の主張)を見つけ、それを繋いだ作者の論理を掴む。その上で、文 をゆっくり、じっくり読んで、正解するまで考える。彼にとって、それはもう大変な作業 だったようだった。しかし結果は、国語ではなかなか取れなかった満点を取った。
中学生でもT君が、こちらは5教科、1日9時間計25日の過酷なスケジュールをこなし、学年トップを奪還。子ども達の頑張りは、まだまだ捨てたもんじゃあない。
サンタさん
「どうだった?」(母)
「サンタさんみたいな先生だったよ。」(息子)
その息子とは先日入塾してきた新中1のM君のこと。白髪交じりのあごひげ(今はすっか り白くなってます)に、白のダウンジャケット(中身は単なる綿、たった1980円ですから) の私を称しての言葉。
昨日の新中1クラスの授業は、冒頭この見事な表現で楽しく始まりました。起業した翌年 の夏、由比の浜石岳野外活動センター(キャンプ場で現在は閉鎖)で、約150名の子供たち が3グループに分かれ、交互にこのキャンプ場に登って来て、2泊3日から1週間のキャン プを行ったことがありました。
その時最初の私のニックネームが、「くまさん」。それがその キャンプの終了時には約2週間に伸びた髭で「ひげぐまさん」となり、以後ずっとこのニッ クネームを使ってきました。
寄る年波が頭髪に打撃を与えられ、更に髭も白髪も交じり始め、 現在の風貌に。「サンタさん」かあ・・・。おでこから下の姿はその通りかも。昨日のM君 の笑顔もよかったですね。