勉強する習慣が身についた 2025年1月31日
中学2年の男子生徒の話である。
親の経済状態を知っているから、友達のように塾に行きたいと言えない。
だから、塾屋がこう言うのも可笑しいが、塾に頼らず、学校で配布された教科書と副教材のみで学力をつける自立学習法を指導する当フォーラムの受託事業(公的な財政支援事業)に、彼は7月から参加してきた。
そして、4か月後の11月の定期試験で、彼は前回6月の定期試験から30点伸ばし、204点(主要5教科250点満点)を取った。
勿論、本人の努力の結果である。当フォーラムのこの3年間の本事業で、初めて200点を超す生徒が現れた。それは、教科書は(授業無しの)自立学習用にも作られている証拠でもあり、自立学習指導の成果でもある。
本人の努力を称え、
「自分ではどうしてこんな点数が取れたと思う?」
と聞いた時に返ってきた本人の言葉が、また泣けてくる。
「まずは、先生からもらった、教科別の『教科書と副教材で学ぶ自立学習の仕方』通りにやり、勉強の仕方が分かった。それに、週2日ここにきて勉強することで、勉強する習慣が身についた。」
ある高校3年生達の会話 2020年8月22日
「やっぱ、この時期2日間続けて遊ぶのって、やばいよなあ。」
「でもさあ、気持ちが遊びたくって、それでも勉強するのって、あんまり効果ないよ。」
「そうそう。おれ達ってサッカーやってて時間がなかったのにさあ、勉強やっては休憩して、ちょっと遊んでは勉強やったりで、よくなかったよなあ。」
「そうすかあ。俺、土曜日友達と服買いに行く約束したら、他の”だち”から『日曜、遊ぼう』ってメール来ちゃったんだよなあ。」
「いいじゃん、パーと遊んですっきりしたら。」
「でもなあ、午前中だけだと思ってメールしたら、『午後も』って言うんだぜ。」
「えっ!丸1日!!前の日に買いもんで、次の日、また遊ぶんだろ?」
「うんだよなあ。どうしよお~。」
「だちも大事だよなあ・・・。そ! 要は、気持ちの切り替えと集中力だよ。って言うのは簡単だけさ・・・。」
「あ~~あ、遊びてえ。でもなあ、べんきょ、べんきょだよなあ~~。」
「うんだんなあ・・・俺も。」
「だったら、パーっと遊べよ。その方が後で心おきなく勉強に集中できるぜ。」
「うんでも、この時期、やばくない?」
「うん?おい!こんな話してたら、時間、無駄にたっちゃうぞ。誰だ?!『気持ちの切り替えと集中力』って言ったのは。」
「あ!やべ!」
「ホントだ!」
昔のある少年の話 2020年8月22日
少年は当時、二本の白線の入った学生帽と**色のユニホーム憧れ、いわゆる進学校を志望。
彼の母親も、さる者。
「うちの中学校ではこれまで多くて1人しか合格してないのに、お宅のお子さんが受けたいと言うと、今年は2人となっちゃうんで、どうしましょう?なんとか志望校を変えて頂くなり、私立を併願して頂かないと、・・・」
と言う担任の先生(実は母親の小学校の時の同級生だった)の親切なお言葉を無視し、
「ただ本人がどうしても行きたいと言いますので」
と、単願を申告。
本人はただただ「努力は天才に勝る」との言葉だけを信じて、そのわりに日記には「もう10時。寝るべし。」と、当時人気の”ケムンパス”のイラストと共に書き留めて、床に入る。
そう言えば、あの「となりのトトロ」並の田園風景の、塾はおろか、書道教室もそろばん教室もなにもない片田舎に住む少年にとって頼れるのは、学校の教科書と先生、そして友達。そうなったら、恥ずかしい気持ちなんか捨て、級友達に詫びながら、授業中は分かるまでとことん質問をした。それに耐えかねた担任の先生が、母親を呼び出し注意したのが災い。「うちの息子の質問に答えられない先生は替えて下さい!」と、食って掛かったらしい。
ある時、理科でフレミングの右手の法則と左手の法則の違いが分からず、本人は必死に質問して2時間の理科の授業を潰してしまった。「ごめん、ごめん。」と、みんなにしきりに頭を下げた、と言う(結局、その日図書館で調べ、電流→力の時が左手の法則、力→電流の時が右手の法則と分かった)。
その理科は、彼にとって一番大好きな授業だった。と言うのは、理科は今と同じように(と思いますが)教室自体が班ごとの、水道やガスバーナーがある実験机になっていた。これは、彼にとって好都合だった。先生に隠れて好きな実験ができた。それで、彼は用具係をかって出た体育の授業の後、用具室からスタート用のピストルの火薬をすくめ、古くなった詰め入り学生服のカラー(白色のプラスチック)を切り刻んで集め、満を持した。待ちに待った理科の実験中、アルミのえんぴつのキャップで作ったロケットをガスバーナーで点火。見事にロケットが発射、石膏ボードの天井に突き刺さった。当然、彼は水一杯のバケツを両手に持って廊下に立たされるが、英雄気取りだったようだ。
はたまた勉強のできる友達をつかまえては、休み時間によく教えて貰っていた。「ありがとうっけね! ○○○君」と、彼は思い出して言った。毎日出される宿題は、時々そんな具合に休み時間にちょこちょこやって、家に持ち越さないこともあった。更に、すぐに復習できると言って、1年生からのノートをホッチキスと糊で閉じ続け、3年生の2学期には厚さ7,8cmになったノートを毎日鞄に入れて通っていた、と言う。
クラブ(今で言う部活)をやって家に帰れば、きょうだいの中で一番歳下の彼の勤めは、まきの風呂炊き。そして、共働きの両親の帰りを待って、夕食。どうなんだろうか?それでも日によっては家でも2時間くらいは勉強したんだろうか。朝早く起きて、毎日電車で中学校に通っていた、と言う。
江戸末期に建てられた少年の家の納屋には、今でも骨董屋が喜ぶような明治時代から使われた数々の小道具と共に、昭和初期の列車(勿論、当時は蒸気機関車)の時刻表が残っていた。黄ばんだその紙には、1日にたった1往復の時間表が毛筆でしっかりと書き込まれていた、と彼は言う。勿論、彼が通っていた頃は客の少ない昼間は1時間1本、朝夕の通勤・通学時間帯にはそれでも1時間に3本はあった、と言っていた。山間の川沿いを走る鉄道ゆえ、大雨が降るとよく線路わきの崖が崩れ線路が埋まり、そこは歩いて向こうで待つ列車に乗るということも何回もあった、と言う。
彼の通っていた小学校は、彼が6年生になると廃校になり、片道30分程の電車通学が始まった。小学校は下の学年の子ども達を引き連れての集団電車登校。帰りも集団電車下校だったかな?中学校では毎日クラブ活動もあり、乗り遅れたら次の電車まで待ち、ほんと時々その待ち時間に宿題をやったり、ある時は電車の中で疲れて寝込んでしまい、見知らぬおばさんに起こされ、あわてて飛び降りたり・・・そんな生活だった、と言う。高校生の時は、クラブ練習疲れで寝過ごししまい、終点の駅から車掌さんに自宅に送ってもらったことが何回かあったようだ。
今と違って殆どが塾に通っていない(と言うか、塾がない)当時は、クラスでの班の勉強会が盛んだった、と彼は話した。数学や英語は、先生の板書き授業のあと、机を班毎に向かい合わせして班で教え合いながら問題を解いていった。時々放課後にもクラブ活動の前に、班の仲間で集まって勉強会が自主的に行われていた。だから、みんな仲間意識も強く、今でも4年ごとに同窓会を開いては親交が続いており、今のいじめや不登校が信じられない、と彼は語ってくれた。
そんな少年も14歳で初恋をした。彼の姉と同じクラブの同級生だった。「数年後ミス**(高校名)に選ばれた。彼には誠に申し訳ないが、彼にはとても不釣り合いなかわいい子だった」と、彼の友達は言う。勿論、当時の片田舎の14歳の少年、少女の恋愛なんて、今の中学生には想像がつかないくらい(?)”うぶ”なのかもしれないね、と彼は言っていた。
「塾なんてなかったけど、クラブ活動は毎日行われ、週に1回は生徒会の委員会がある。そんな学校生活で、時折手紙と言うか、交換ノートみたいなものを渡す位。あまりみんなに知られないように、休み時間はちょこっと話す程度。電話?そんなの照れくさくてしないよ。お互いの誕生日に、手作りの物や本を送り合ったり。それでも5年位続いたのかなあ。高3の12月、自分の友達と親しげに話す彼女と出くわしてしまって、それで終わりさ。」
「でも、その時はいろんな事を知ったし、考えた。なんて言うかなあ、ホント初めて自分をとことん見つめ合った気がする。」と、彼は語り続けた。
ある生徒との話 2020年8月20日
「クラスのみんな、学校を休んでいた自分をへんな奴だと思ってるんじゃないかと思うと、教室に入っても頭を上げられない。」
「誰かそう言ったの?」
「いや、言わないけど、絶対そう思ってる。」
「友だちに聞いたの?」
「ううん。でも、僕が教室に入っていくと、ヒソヒソ話してるんだもん、絶対にそう思う。」
「そりゃあ、確かに怪我や病気とかはっきりした理由で長く休んでいたら、みんなも『大変だったね。』なんて声を掛けてくれるかもしれないが、理由が分からないと、『どうしたんだろう?』と思う子もいるかもしれないね。」
「そうだよ。『あいつ、おかしいんじゃない。』って、絶対話してるよ。」
「そうだね、そう言った子もいるかもしれない。でも、中には、『僕達が何か来れなくなるようなことをしたのかなあ?』って話し合っている子達もいるかもしれないし、『中学校最後の体育大会もあるから、もうそろそろ来ないかなあ?』って待っている子だっているかもしれない。そりゃあ、ひとりひとり確かめなくっちゃあ分からないよね。でもね、もう2学期も始まったし、ましてや今日は”学調”(静岡県校長会主催の中3の学力調査試験)の日。このところはそれどころかみんな試験勉強に必死で、そんなこと考えている余裕がないかもしれないね、現実は。」
「・・・・・・・・」
「誰だって、特に14,15歳の頃は(この歳に限らないが)みんな、自分をよく思われたいと思っているよ。だから、勉強して少しでも頭がいいって思われたいし、部活で活躍して格好いいところを見せたいって思う。でも、いつもいつもうまくいくとは限らないし、時にはみんなの前で失敗して恥を掻くことだってある。だから、みんな自分と同じ仲間だと思うんじゃないかな。」
「だって、あんなに学校を休んだら(昨年の2学期の途中から3学期までのことです)、誰だってへんな奴だと思うよ。」
「そお?そんな風に誰かに言われたの?」
「・・・・・・・・・」
「じゃあ、君は、自分のこと、本当にへんな奴だと思ってる?」
「うんなわけないじゃん。」
話しかけると、必ず彼は隣の母親の顔を見る。母親はそんな彼に、”自分から話せば”と身振りで促す。
「そうだよね。勉強だって、あんなに休んでいたって期末には40点台(50点満点)を取れるんだし、決して学力的にも”へん”じゃあない。ただ今は長い休み(夏休み)があってみんなと会ってないから、またちょっと周りの目が気になりすぎているんだろうね。
誰だって暫く会ってないと、○○ちゃん、どんなふうになってるんだろう?とか、みんな、こんなに日焼けした自分を見てびっくりするんだろうなあ、とか気になるもんだよ。だから、みんなに会うのが楽しみなんだよね。どうかなあ?
ある意味で”開き直り”が必要かもしれないね。『何を言われても、どう思われても、これが俺なんだ。』っていう気持ちがね。だって、それが現実だし、隠しようもないことだもんね。」
「う~んもお、明日は学校に行こうかなあ。こんなことしてたって・・・」
「どんなこと?」
「学校休んで寝てたら、ますます”へんな奴”じゃん。」
「”へんな奴”って、自分で自分を、そう思ってたの?」
「・・・・・・・・・」
「教室に入ってもどうしても顔を上げられないほど苦痛に感じることも事実だし、ちゃんとした理由だよね。そうした気持ちが癒えるまで休んでいることも、決して”へん”じゃあないよね。」(*月5日)
あれから3日目。どうしてるんだろう?彼は(*月8日)
一昨日、電話でその生徒と話をした。まだ学校には行かれない状態だった。5日に話した後、少しは気持ちがすっきりして勉強もし始めたというが、ちょっと分からなくなると、気持ちがイライラしてきて続かなくなってしまったという。しきりに”もう僕は高校には行けない”という言葉が出てくる。そんな自分に苛立つ。友達も1人か2人で、このところは全く会っていない。自分への見方が気になって、自分からは話しかけたり、誘ったりはしないという。15分ほど、彼が話したいだけ聞いた。最後に「そんなだったら、またこっちにおいでよ。」と言って電話を切った。
1年半程前かある教材出版社の方から頂いた木村茂司氏の論説のコピーを思い出した。氏は、愛知県で学習塾を経営する傍ら、不登校の相談を受けておられる。氏も書かれておりますように、不登校の生徒はまずは神経過敏である。彼の話、そのままである。その是非が問題ではない。だから、まずは安心させることが大切なんですね。(*月14日)
人は、「自分が普通に思うことは、他の人もすべて同じことを思っている」と考えて生きている。人は無自覚に、自分と他人は同じ考えだから安心だと思う。だから、肩肘を張らず気軽に会話や挨拶ができる。何の疑いもなく信じることができる根拠は、「自分がそう思うのだから、あの人も同じだと思うはず」という自分の主観のみである。この思い込みがあるからこそ、相互信頼を前提とした安心、安全な社会が成り立つ。(「脇役になれない子どもたち」桑島隆二著より)
彼は、以前不登校になった友達に対して「へんな奴」と思っていた。だから、「クラスのみんな、学校を休んでいた自分を変な奴だと思ってるんじゃないかと思う」のである。自分に対して思うことは、かつて自分が他の子に対して思ったことそのままなのである。そこに気付かせるのも、不登校解消のカウンセリングの一つである。
ある小学生のお話 2020年8月19日
「こんにちは~」 自転車用ヘルメットを外しながら自分の席に着き、テキストと筆記用具をカバンから取り出し、早速テキストを広げる。勿論、彼もここまではみんなと同じ行動を取る。
しかし、その後彼は鉛筆を持ち、字を書き始めるのは、10分か15分後である。ホント長い間黒板の一点を見つめ、あるいは教室の壁に張ってある掲示物をじっと見つめ、時折テキストに目を落とすも、問題を考えている表情はない。
声を掛けると、慌ててテキストに目をやるもそれまで。その内に彼は、テキストの余白や机の上に計算を書き始める。
3分も続いたのだろうか。椅子の上にあぐらを組み、腕を組んでは再び壁や黒板を見始める。この間自分からは一言も話さない。じっと黙って座っている。頻繁に時計は見る。
何度か彼と話をしたことがあった。でも、彼は塾はやめたくないと言う。
55分個別指導の中でただの1回、テキストの見開き2頁を、答えだけを残し、計算過程を見事にきれいに消して持ってくる。間違えても、絶対に自ら進んで直しはやらない。一緒に直しを行うも、自分ではその直しを書かない。
再び彼と色々と話し合ってみた。おそらく彼と話した人は、一様に途中で話を打ち切ってしまうだろう。小5にして生意気な態度を取り、話が核心に迫ると話をはぐらかし、避ける。
当時私はある研修を受けていたことからピンとくるものがあって、それから学習のペースは全面的に彼に任せ、最初にその単元の基本原理をしっかり指導した上で演習させ、彼ができたものは誉め讃え、間違えは極力優しく丁寧に教えながら、すべてを彼のノートに書いていくことにした。
今年の初め頃か、柔道を習い始め、クラスのみんなの前で模範演技やって見せたことがあり、みんなから「すごい!」と讃えられたことがあってからか、彼の態度に変化が現れ始めた。
当スクールの小中学生部では、月に一回作文指導がある(中学生は希望者)。日本作文指導協会から毎月2つのテーマが出され、生徒は自分でそのいずれかのテーマを選択し、それについて400字程度の作文を書く。それを同協会に送ると、同協会の専門の先生が実に丁寧な添削指導をしてくれ、指導ポイント付きで当スクールに送られてくる。そして、それを元に当スクール担当講師が当該生徒に作文指導をするシステムである。
彼は第2水曜日にやるこの作文教室の時は、いつもと全く違って実に意欲的に取り組む。当スクールの時と同様に、学校でも余り話さないと言う彼にとって、この作文は彼の自己表現のよい機会なのだろうか?
6回ほど書いた彼の作文を読むと、やはり習い事のために自由に遊べる日が少ないことに対する不満は表れている。それでいて、「塾はやめたくない。」と言う彼の言葉も全くの嘘ではないようだ。
このところ学校の勉強が難しくなってきたと感じており、塾で勉強して何とか分かりたいと書いている。
柔道を習い始めたことは彼にとって本当によかったようで、その作文にもそのことがはっきりと書かれている。みんなに自分をアピールでき、自分の存在感を確かめられているようである。
その中で、架空の友達に手紙を書くという課題で彼は大変素晴らしい作文を書いた。でも、その中で彼は自分には気の合う友達が少ないと訴えていた。遊びに誘ってくれる友達は何人かいるようだが、どうも心がまだ通い切れないようである。
彼の当スクールでの学習態度の原因は、彼との話の中から掴めた。小学3年の時の習い事で受けた、彼にとって自尊心を深く傷つけられる厳しい指導が原因らしい。おそらくその指導者は彼によかれと指導したことだろうが、みんなのいる前での出来事、彼にはショックだったようである。心理学的に言えば一種の虐待となってしまった。
柔道はその自尊心回復には大変役立っているが、学習面でのその解消にはまだ暫く時間がかかりそうだ。それには、そうした彼の状況を正確に把握した上で、彼の自尊心を支える気長で根気強い指導が必要だと考えている。
数週間後、もう授業開始から30分。“今日はお休みかな?地区の陸上競技会で、他の同学年の小学生も来てないし。”なんて考えておりましたら、1台の自転車が塾の駐車場に入って来る音がした。”あれ?”と思う間もなく、
「こんにちは~!お願いします~!」
と、いつになく元気のいい声で彼が教室に入って来た。
「競技会、どうだった?」
と聞くと、初めて見せるにこにこ顔で、
「優勝しました!」
と声も弾んでいた。
「おお! それはおめでとう! 頑張ったねえ。」
と讃えると、
「はい! ありがとうございます!」
本当に満足顔だった。
足の速い彼が地区の5年代表リレー選手に選ばれたことは聞いていた。しかし、成績如何では聞いたらまずいかな? なんてちょっと躊躇したが、聞いてみてよかった。
「今日はどうする?30分遅れちゃったんで、30分居残ってもいいし、疲れていたらみんなと一緒に終わってもいいよ。」
って言ったら、
「はい、30分居残っていきます!」
と、即座に答えた。
これにはたまたま自主勉強に来ていてきて、私に質問していた中学3年生もびっくり。
「よし!じゃあ、頑張ろう!」
中学3年生の質問に答えた後、彼を呼び、今日やる単元の説明をしてやり始めた。
最初はその表情も意気揚々だったが、しばらくして演習に入ると、いつものような態度を見せ始めた。
”でも、今日も彼に任せよう。そのうち・・・”
時々彼と目があったが、それでも今日の彼は一生懸命考えているようで、盛んに鉛筆を動かしていた。
2,30分経って、
「どう?できたあ?」
と聞くと、
「もう少しです!」
とまだ元気のいい声が帰ってきた。
結局、その日は演習指導はできなかったが、彼にはちょっとしたこうした機会を見付けては、少しずつ心のよりを解きほぐしていくことだと考えている。どうだろうか?
「そうずらか、そうずらよ」――三宅島と静岡の親子交流会を終えて―― 2020年8月12日
人は仲間と群れ集う中で、互いに触れ合い、関わり合い、時にぶつかり合いながら、自分と他者を確認し、認め合い、支え合って成長していく。
今回の交流合宿に参加してくださった方々の、そんな小さな“心の一場面”を、私なりに綴ってみたい。
夏にしては涼しく、気持ちのいい朝だった。マイクロバスに乗り、下田へ向かう。ほとんどが初対面の人たち。私たちは、やはり最初はいつもの友達とばかり話していた。
でも、隣に座った人はどんな人だろう。思い切って声をかけてみる。返事が返ってきた。
――あ、話しやすい人だ。
きっと、みんな同じ気持ちだったのだろう。
いつもなら海底十メートルまで見通せる下田・大浦海岸も、台風の接近で少し濁っていた。ライフジャケットをしっかり着け、生まれて初めてシーカヤックに乗る。
意外と簡単に漕ぎ出せたが、まっすぐ進まない。思う方向にも進めない。それでも、海の上から見る海岸は、自分が大自然の一部になったようで、素晴らしかった。
初めてのカヤックなのに、いきなりカヤックリレー。前の人にタッチされ、「次は自分だ」と必死で漕ぐ。
――あれ? まっすぐ進んでる。
百メートル先のブイを回る。ターンは難しい。すると、友達がもたついている。今だ。追い越した。
やった。
カヤックに乗ったまま隣同士でカヤックを持ち合い輪を作り、その上を一人ずつ歩く「いなばの白うさぎ」ゲーム。
自分でも驚くほど、見事に一周回れた。拍手が起きた。胸がいっぱいになるほど、うれしかった。
宿泊先は下田・あずさ山の家。入口の水車池では、アヒルとマガモが迎えてくれる。
スタッフのたかさんから部屋割りが発表される。知らない人と同じ部屋。少し困った。でも、考えてみれば、みんな同じ条件だった。
交代でお風呂に入り、夕食作りが始まる。金目鯛の刺身、金目鯛のお頭入りの味噌汁、サラダ。
「手伝わなければ食べられないぞー!」
さて、何を手伝えばいいのだろう。とりあえず聞いてみよう。
お腹がすいていた。
……あっ。味噌汁をこぼしてしまった。
「こぼしたー!」と言われ、気まずくなって部屋に戻り、テーブルの下に隠れた。悔しくて、涙が出た。
すると、友達が夕食を部屋まで運んできてくれた。
――うれしかった。
スタッフのお兄さんたちが打ってくれた藤枝茶入りの手打ちそば。少し短く切れていたけれど、おいしかった。
夕食後は海草の押し葉。下田海中水族館の土屋先生に教えてもらった。
海草に糊の成分があるなんて、私、知らなかった。確かにヌルヌルしている。きれいにできたつもりだが、仕上がりが楽しみ。でも、少し不安だ。
僕ら五人で、静岡カヌークラブ会長さんの指導のもと、天竜杉のカヌーを作った。
型板を当て、墨を付け、のこぎりで切る。曲線は難しい。のこぎりに縦引きと横引きがあることも初めて知った。杉板が大きくしなることにも驚いた。
だから船は杉で作られてきたのだという。
ボンドを塗り、穴を開け、ネジを打ち、隙間をコーキング。翌朝、水車池で水漏れを確認し完成。
「三宅・静岡号」と名付け、マジックで寄せ書きをして進水式。
浮かんだ。
よかった。
三宅のオー君、一緒に作った「三宅・静岡号」、いい思い出になったね。
一方で、三宅島では雄山が白い噴煙を上げ続けていた(2000年当時)。いつ避難命令が出てもおかしくない生活。食事もゆっくり取っていられず、早く済ませることばかり考える。家族みんなでくつろぐどころか、いつも家族の安全を考えていたという。
そんな生活から全島避難後の下田での暮らし。楽に囲まれ、便利さの中での子育てに悩む三宅の方々の話。
その交流を通して、東海地震の不安を抱えながらも平穏に暮らす自分たちの生活を、あらためて見つめ直す機会となった。
夜。友達だけで迎える初めての夜。枕投げ、怖い話、友達のこと、大学生のお兄さんお姉さんのこと。
気づけば深夜まで話していた。
こんなこと初めてだったけど、楽しかった。
たった二日間なのに、ずっと一緒にいたような気がする。別れは少しさびしかった。
来年も、また会おう。
もう一度、きれいな海でカヌーをやりたい。
素晴らしい思い出を、ありがとう。
追伸
本交流合宿の実施にあたり、三宅村村長様より当フォーラムに感謝状を頂いた。こちらこそ、ありがとうございました。
この交流合宿では、年齢や立場を超えた関わりの中で、参加者一人ひとりが多くの肯定的ストロークを受け取っていた。
失敗しても責められず、挑戦すれば拍手され、困ったときには手を差し伸べられる。そうした体験が、「自分はここにいていい存在だ」という感覚を、自然に育てていったのである。
人は、正しいことを教えられるよりも、受け入れられた体験によって変わっていく。
そのことを、改めて実感させられる交流会であった。
ADHDの彼の話 2020年8月8日
当時、A市内にあった当フォーラムの正会員教室で、私は初めて彼と出会った。
「出会った」と言っても、彼は終始、机の下に潜り込んだり、隣の教室へ行ったり、書庫の中を探し回ったりしており、私と正面から向き合うことは一度もなかった。
落ち着きなく動き回り、注意が持続しにくい様子から、注意欠如・多動傾向が強く見られる小学3年生の男の子であった。
父親は大手企業の技師、母親は保健師。3歳年上の兄がいる家庭だった。
私はまず、彼が何に興味を持つのかを探ろうとしたが、声をかけても、ちらりとこちらを見るだけで、返事はほとんど返ってこない。教室内を歩き回るばかりで、関わり方がつかめなかった。
1か月後の4月初旬、「豪州・ペンリス市春の大自然交流合宿」に参加した。
ジャミソンタウン小学校玄関前での集合写真では、彼がフレームから飛び出してしまわないよう、私は後ろからしっかり抱きかかえた。彼は、その間も一瞬たりともじっとしていなかった。
それでも彼は、このオーストラリアでの4泊5日の交流合宿、その後の夏の長野県八ヶ岳合宿、冬のふじてんスノーボード合宿(いずれも2泊3日)にも、意欲的に参加してくれた。
ご両親も、そのすべてを支えてくれた。
大学生や社会人のリーダーたちには、彼に対して意識的に声をかけ、集団行動にも誘い、
「楽しいね」
「よかったね」
「できたね」
と、肯定的な言葉をかけ続けてもらうようお願いした。
その積み重ねの中で、彼はバディ(オーストラリアでのペア)との日本の伝統遊び、送別会での合唱、八ヶ岳ハイキング、英語版「だるまさんが転んだ」、スノーボードやガラス工芸など、さまざまな活動に、仲間と一緒に楽しそうに参加するようになっていった。
転機を感じたのは、1年半後の夏、沖縄・座間味交流合宿(3泊4日)でのことだった。
初日の夜、リーダー会議でその日の映像を振り返っていたとき、あるリーダーが声を上げた。
「あれ? ○○○が、開村式の間ずっとベンチに座って、村長さんやリーダーの話を聞いてる!」
映像を巻き戻すと、確かに彼は、ときどき足を揺らしながらも、席を立つことなく話に耳を傾けていた。
初めて会った頃の彼を思うと、信じがたい光景だった。
翌朝、そのことを彼に伝えると、彼はこう答えた。
「リーダーたちが、ぼくによく話しかけてくれるし、ぼくの話も聞いてくれる。だから、人の話はちゃんと聞こうって思った」
私は彼を褒めた。
彼は、うれしそうに笑った。
そして、これまで一緒に関わってきてくれたリーダーたちに、心から感謝した。
合宿3日目の午後、子どもたちは村祭りに招待された。
花火、盆踊り、出店――すべて無料で、子どもたちは思い切り楽しんだ。
夕方、彼はニコニコしながら、スイカほどの大きさの新聞紙の包みを抱えて戻ってきた。
中身を聞くと、丸焼きにした豚の頭蓋骨だという。
「ほしいって言ったら、おじさんがくれた」
そう誇らしげに話す彼に、私は
「そうか、よかったね」
と答えた。
合宿が終わって10日ほど経った頃、彼のお母さんから、驚いた様子で電話がかかってきた。
「先生! ○○○は合宿から帰ってきて、旅行カバンをそのままにしていたんです。今日、その旅行カバンを片づけようと思って開けたら……焼けた匂いのする新聞紙の包みが出てきて。開けた瞬間私、腰が抜けました。ブタの頭蓋骨だったんです!」
私は答えた。
「彼には、帰ったら親御さんに説明するよう言ってあったんですが……言わなかったんですね。座間味の夏祭りで、みんなに振る舞われたものです」
お母さんは続けて言った。
「そういえば先生、学校の先生が、最近は授業中も座って落ち着いて勉強していますよって。親の話も、前よりずっと聞くようになったんです。ありがとうございます」
私は、こう返した。
「それは、ご両親が毎回、彼を活動に参加させてくださったおかげですよ」彼はその後も、小学校卒業まで、私たちの交流合宿すべてに参加し、中高一貫校へ進学。
現在は大学生となり、仲間と共に学生生活を楽しんでいる。
一般に、成長とともに多動性は落ち着くが、脳機能の特性そのものを根本的に治す方法はないとも言われている。
医学的な因果関係は分からない。
しかし、人との関わりの中で繰り返された肯定的な体験が、彼の成長に良い影響を与えたことは、確かだと私は感じている。
交流分析(TA)の視点から見ると、彼の変化は非常に示唆的である。
彼は出会った当初、衝動性が強く、周囲との関わりを避けるように動き回っていた。これは、周囲からの評価や関係性に対する不安を背景にした「適応した子ども(AC)」と、衝動的に反応する「自由な子ども(FC)」が混在した状態であったと考えられる。
交流合宿において私たちが意識したのは、彼を「問題行動のある子」として指導することではなく、存在そのものを肯定し、成功体験を積み重ねることであった。
リーダー達が繰り返し用いた
「楽しいね」「よかったね」「できたね」
という声かけは、交流分析で言うポジティブ・ストロークを安定的に与える関わりであり、彼の中の「自由な子ども(FC)」を安全に表出させる土台となった。
また、集団の中で役割を与えられ、話を聞いてもらい、仲間として扱われる経験を重ねたことで、彼の中に現実を冷静に判断する「大人(A)」の自我状態が徐々に育っていったと考えられる。
沖縄・座間味での開村式において、彼が長時間落ち着いて話を聞いていた姿は、その象徴的な場面であった。
ADHDは医学的には脳機能の特性とされ、根本的に「治る」ものではないと言われている。しかし、交流分析の立場から言えば、自我状態のバランスと、ストローク環境の質が変われば、行動は確実に変化する。
彼の事例は、否定的なストロークを減らし、肯定的なストロークを十分に与えられた環境の中で、自己肯定感と対人関係能力が育った好例である。
この経験は、発達特性のある子どもに対して「管理」や「矯正」を行うのではなく、人との温かな交流の中で自ら育つ力を信じ、支えることの大切さを、私たちに教えてくれている。
自立への一歩 2020年8月7日
専門学校に通う、17歳の少年の話である。
彼は、初めて「西伊豆・堂ヶ島温泉一泊二日交流合宿」に参加した。目的は、シーカヤックと磯釣り、食べきれないほどの海産物料理、そして露天温泉。
参加者は計11名。10代は彼一人で、他は20代から60代までの大人たちという、年齢も立場もばらばらな、少し不思議な顔ぶれだった。
20代の若者は、NPO法人静岡県教育フォーラムの元リーダー。その他は、私の飲み仲間で、日頃からこうしたNPO活動を手伝ってくれている仲間たちである。
実は、この合宿の話を彼にしたのは、出発のわずか2日前だった。
初めて家族以外の人と旅行をすることに、彼は当初かなり消極的だった。しかし、彼女から
「私はお金がないから行けないけど、あなたにとって、とてもいい旅行だと思う。行ってきなさい」
と背中を押され、参加する気持ちになったという。
彼の話を聞くと、中学校の基礎学力が十分に身についていないため、専門教科の授業についていけず、単位取得への不安とプレッシャーが積み重なり、パニックを起こすようになったとのことだった。
近所の方の紹介で、父親とともに私のもとへ相談に来たのは、この合宿の10日前である。
しかし学校側は、そうした背景を十分に把握しないまま、とにかく病院に行かせ、突然泣き出したり勉強が止まったりする症状を改善するよう、保護者に伝えていたようだった。
当時、学力の二極化というより、学力低位層の増加が顕著で、相談を受ける中で共通して見えてきたのが、基礎学力の低下だった。
九九、漢字、計算、分数や割り算の意味といった、小中学校で学ぶ基礎・基本、原理の理解が不十分なのである。
そこから生まれる自信のなさ。
さらに、家族という安心できる枠の中だけで育ってきたことによる、自立経験の少なさ。
私は、そこに彼の課題の本質を感じた。
そこで、急ではあったが、この交流合宿への参加を勧めたのである。
彼女に背中を押されてからは、両親に駄々をこねるほど参加を望むようになり、その変化に私も驚いた。
お父さんから電話をいただき、私から合宿参加の意義を説明し、ご両親の了承を得て、彼の参加が決まった。
当日、朝6時過ぎに彼と合流し、参加者の家を回りながら西伊豆へ向かった。
乗り込んでくる参加者は、彼にとって全員が初対面、しかも年上ばかりだったが、彼は緊張しながらも、一人ひとりにきちんと挨拶をしていた。その姿に、仲間たちは感心していた。
土肥で元リーダー、当時伊豆の高校で数学を教えていた教師と合流し、田子瀬浜海水浴場で昼食をとりながら、約4時間、カヤック、カナディアンカヌー、磯釣りを楽しんだ。
彼はカナディアンカヌーに乗せてもらい、干潮の海を渡って向かいの島へ行き、5、6人の参加者とルアー釣りを楽しんでいた。釣果はなかったが、午後2時半を過ぎると風が強まり、撤収を決めた。
搬送のため、カナディアンカヌーと二人乗りカヤックが島へ向かったが、強い向かい風を受け、大きな船体はなかなか前に進まなかった。岸からその様子を見守る私たちも、不安を感じ始めていた。
いよいよ救助に向かおうとした、そのときだった。
彼が突然、海に飛び込み、カナディアンカヌーへ泳いでいったのである。
彼は船体につかまり、引き上げてもらって乗り込み、必死に漕ぎ続けた。
やがて仲間のもとに辿り着き、荷物を積み、強風に煽られながらも二人で力を合わせ、無事こちらの岸へ戻ってきた。
到着した瞬間、自然と拍手が起こった。
「ありがとう。助かったよ」
一緒に漕いだ仲間にそう声をかけられたときの彼は、驚くほど逞しく見えた。
もし専門学校の先生方がこの光景を見たら、きっと信じられなかっただろう。
その後、町営の露天風呂に入り、大人たちと談笑する彼の姿を見ながら、私は心から「連れてきてよかった」と思った。
夕食時、食べきれないほどの海産物を囲みながら、話題の中心は自然と彼になった。
ニコニコしながら、大人たちの輪に溶け込む彼を見て、こうした体験こそが、自立への一歩なのだと実感した。
翌日の彼の行動は、驚くほどテキパキしていて、実に気持ちが良かった。
その夜、事務所のパソコンを立ち上げると、その日の夕方に、彼が学習したデータがすでに送られてきていた。
合宿の疲れも何のその。
帰宅後彼は、自分から机に向かって勉強し始めていたのである。
徒然なるままに その二 2018年11月5日
佐藤直美氏は、著書『不登校・引きこもり脱出レポート』の中で、次のように書いておられる。
「特に小さい子どもにとって、世界のすべては家庭です。ほとんどのことを、親や兄弟から学ぶしかありません。
もし、親が仕事で疲れ、人間関係に悩み、疲れ切って帰ってくる姿を毎日見ていたとしたら……。
子どもはきっと、『外の世界って、なんてひどいところなんだろう。そんな怖いところには絶対に行きたくない』と感じてしまうかもしれません。
そして、その誤った思い込みは、子どものその後の価値観に大きな影響を与えるのではないでしょうか。
だからこそ、私たち大人は、自分の人生を自分らしく、楽しく生きて、『外の世界は素晴らしくて、人間もみんないい人よ。これからも良いことがいっぱい起きるよ』ということを、子どもに感じさせてあげなければならないのだと思うのです。」
「三つ子の魂百まで」と言われるように、子どもがこの世に生を受けてまず形成するのは、家庭や身の回りの出来事を通して描かれる人生脚本の原型である。
子どもが「自分は親にとって大切な存在なのだ」と実感できるほど、たっぷりとした愛情を受けて育つことで、親子の信頼関係が築かれ、自信が育まれ、他者との信頼関係を結ぶための土台が形づくられていく。
また、佐藤氏が述べているように、家族の在り方や日常の風景は、子どもの価値観、人間観、人生観の基礎となる。
たとえば、友達づきあいや近所づきあいがほとんどない親のもとで育つ子どもは、人間関係を築く術を学ぶ機会が乏しく、自然な形での集団参加(公園デビュー)が難しくなるだろう。
また、両親が無口で内向的な生活を送っていれば、子どももまた、その生き方しか知らず、同様の生活様式を身につけていくことになる。
もちろん、そうした環境の中で、子どもはそれぞれに感じ、考え、行動していく。決して一律ではない。しかし、人生の出発点として、家庭環境が大きな影響を持つことは否定できない。
私たちが実施している交流合宿などで、子どもたちが同世代の仲間と出会い、心を揺さぶられる体験をするとき、彼らはまさに佐藤氏の言葉を実感として体に刻み込む。
「外の世界は素晴らしい。人間も、みんないい人だ。これからも、きっと良いことが起きる。」
そうした体験が、不登校や引きこもりからの回復へとつながっていくのである。
この随想で、交流分析で言う人生脚本(Life Script)の形成過程を、極めて分かりやすく描いた。
幼少期の子どもにとって、家庭は世界そのものである。
そこで受け取るメッセージは、
• 「世界は安全か、危険か」
• 「人は信じてよい存在か」
• 「自分は生きていてよい存在か」
といった、人生脚本の根幹を形づくる。
親が疲弊し、希望を失い、外の世界を否定的に語る姿を日常的に見せていれば、子どもの中には
「世界=危険」「外=怖い場所」
という無意識の決断が生まれる。
これは、子どものA(大人)による合理的判断ではなく、FC(自由な子ども)が感じ取った感情と、AC(順応した子ども)の適応的決断によるものである。
一方、交流合宿で起こっていることは何か。
それは、これまで家庭内で刷り込まれてきた人生脚本に対し、
「異なる世界観を、体験として提示する」
という極めて交流分析的な介入である。
理屈で「外の世界は大丈夫だ」と教えるのではない。
同世代との出会い、共に過ごす時間、感情の共有を通して、
FCが安心して動き出せる新しい体験を提供している。
この体験によって、
• 「人は信じてもいい」
• 「自分は受け入れられる」
• 「世界は思っていたほど悪くない」
という、新たな脚本の書き換えが始まる。
つまり、不登校や引きこもりの回復とは、
行動の矯正ではなく、人生脚本の再編集なのである
徒然なるままに その一 18年10月28日
2001年8月24日、静岡第一テレビのニュース番組で、私たちNPO静岡県教育フォーラムの活動――「そうずらか そうずらよ」下田交流合宿――が取り上げられた。
その放映をご覧になった一人のお母さんから、後日お手紙をいただいた。
小・中学校時代に長く不登校を経験したものの、現在は公立高校に通っているお子さんを持つ方だった。不登校だった頃、親として味わい続けた長い苦悩の日々。そして、この一学期、再び不登校になりかけたものの、夏休みに友達との交流を通して、わが子が自分の力でそれを乗り越えていったこと。
「自分で手に入れた高校生活の中で、もう一度、自分の存在を見つけようとしている姿を見て、子どもはいつか必ず自立していくのだと信じる決意ができました」
そんな思いがにじみ出た手紙だった。
一学期の成績は散々だったという。しかしこのお母さんは、そこには目をつむり、夏休みは思いきり遊ばせた。私はその対応に、心から感激した。
その夏、お子さんは、中学時代の友達もまた、自分と同じように高校生活への「期待外れ」や「思惑外れ」を感じながら、それでも自分に合う何かを探し求めて学校に通っていることを知ったという。
「自分も、もう一度やってみよう」
そう思うに至った――素晴らしい話である。
不登校を経験する子どもは、確かに「みんなと違う」ことに苦しむ。
しかし、それは違う。
みんな同じなのだ。
誰もが悩み、苦しみながら生きている。ただ、その壁の高さが人によって違い、乗り越え方や、そこに要する時間が違うだけなのである。
十七歳の女子高校生からも、手紙をもらった。
担任の先生に「受験に有利だから」と勧められ、気乗りしないまま生徒会役員を引き受けたという。ところが、やってみると、その役割は決して負担ではなく、むしろ自己の存在感を得る機会となり、充実した高校生活を送っている。しかし、その姿を羨む陰口が耳に入り、「世渡り的に(進学に有利だと)引き受けたのではないか」と、自分自身に少し葛藤を感じている――そんな内容だった。
ある補導員の話を、私は思い出す。まったく同感である。
「“万引き”を、ゲームのように捉えている親がいるが、あれは立派な“窃盗”という犯罪だ。その認識を、親がまず持たなければならない。」
「万引きをしたら、本人はもちろん、親も一緒に店に行き、土下座して謝りなさい。そうして初めて、犯罪意識が身につく。」
「もちろん、非行は『お父さん、お母さん、僕の方を向いてよ』というサインでもある。」
「子どもの前で、父親や母親を決して批判するな。」
「子どもの前では、父親や母親を誉めなさい。やさしくいたわりなさい。」
「夫婦喧嘩を、子どもの前でしてはいけない。子どもは、どちらの味方をしていいのか分からなくなる。」
「もし親も子も感情的になってしまったら、手紙を書いてみなさい。自分の子ども時代から今までのことを。そうすれば、冷静に話せるし、冷静に話を聞ける。」
小学生から大学生のみなさんに、少し聞いてみたい。
今、親に思いきり甘えたいと思うことはあるだろうか。
ここ最近、さまざまな大人たちと話す中で、私は考え込んでしまった。今の親は、自分自身のことで手一杯になり、目の前にいる大切な子どもと、心から関わることを後回しにしてはいないだろうか。
非行、いじめ、キレる――。
あるいは、爆音を立てて信号を無視し、商店街を暴走する行為。閉店したガソリンスタンドの壁や、学校のブロック塀に、意味不明な文字を書きなぐる行為。
物質的には、かつてないほど満たされている現代社会で、子どもたちが抱えているフラストレーションの正体とは何なのか。
考えてみれば、やはり私たち親自身が、「親になる勉強」をし直す必要があるのではないかと思う。
子どもたちは、満たされない依存心の裏返しとしての攻撃性を、外に向けるしか方法がないのかもしれない。
この随想に一貫して流れているのは、「子どもを問題視しない」という姿勢である。