時には不登校にさせる 2018年10月20日
A君が中学1年の九月下旬から不登校となり、十一月初め、ご両親が相談に来られた。本人とも面談し、心理テストを実施したうえで、素因を科学的に分析した。
その結果、父性(規範意識)の弱さ、自尊感情の低さ、周囲の目を過剰に気にする傾向が明らかになった。加えて、英語・数学・理科を中心とした基礎学力の不足も顕著であった。
早速、当該中学校の出席認定を取りながら学習支援を開始した。同時に、父性(規範意識)、自尊感情、そして感性――すなわち感情を表出する力――を育てるプログラムを組み、段階的に実施した。その結果、一か月半後の十二月中旬、A君は再登校を果たした。
ところが年が明けた一月下旬、再びご両親が相談に来られた。話を聴くと、A君は平日毎日放映されているあるテレビ番組(『水戸黄門』)をはじめ、テレビやゲームに没頭し、ほとんど勉強をしなくなったという。
本人と話し合った。せっかく学力を取り戻し、授業にも復帰したのに、である。
「でも、僕はあの番組が好きなんです。ゲームも、友達みんなやってますし」
彼に反省の色はなかった。宿題も、テレビやゲームに時間を取られてやらないことが多いと、平然と語った。
私は言った。
「分かった。そんなに勉強する必要を感じていないのなら、今から家に戻りなさい。家にある勉強道具、教科書、副教材、ノート一式をすべて段ボールに入れて、ここへ持って来なさい。
このあと君の両親と相談し、明後日の月曜日、私が学校へ行って担任の先生に申し入れをする。君はその日から、毎朝八時に自転車でフォーラムの教室に来なさい。」
後で聞くと、A君は「毎日フォーラムで勉強させられる」と思っていたらしい。
持ってきた教科書類一式は、彼が帰ったあと、鍵のかかる書棚に段ボールごと保管した。
私は両親を呼び、ある提案をした。両親は驚きながらも、校長先生宛ての申し入れ書に署名してくださった。
妻には、「明後日の朝、私は彼の学校へ行く。彼が来たら、教室の掃除をさせてほしい」と伝えた。
申し入れ書
**中学校校長様。
私達、**Aの保護者は、Aの今後の成長のために、*月*日からAが学習の必要性を切に感じるまで、**中学校の授業に欠席すること、及び、その間毎日特定非営利活動法人静岡県教育フォーラムの教室に通い、同理事長の指示の元に作業させることに同意し、申し入れます。
****年*月*日 藤枝市***丁目**番**号 父**** 母****
私はその申し入れ書を持って中学校へ行った。当然、先生方は驚かれた。
「A君の保護者の同意と正式な申し入れもありますので、了解しました。しかし山下先生、不登校を解消してこられた先生が、逆に“不登校にさせる”のですか。驚きました。ただ、その方法には確かに大きな教育的効果が期待できます。見守らせていただきます。」
校長先生はそう言って快諾してくださり、その期間の出席認定も認めてくれた。
その日からA君は、毎日朝から夕方まで弁当持参で通ってきた。しかし彼には、勉強を一切させなかった。
フォーラムの教室、建物、そして周辺まで、ひたすら丁寧に掃除をしてもらった。
三日目、彼は言った。
「先生、本当に掃除ばかりで、勉強はさせてくれないんですか?」
「もちろんだ。君は勉強する必要はないという行動を取ってるんだから、当然だ。」
四日目には、
「先生、やっぱりお願いします。少しでいいから勉強させてください。」
私は断った。
五日目、作業を終えて帰ったその夜、彼は両親を連れて教室に来た。入るなり、彼は両親と私の前で土下座し、こう言った。
「どうか僕に勉強をさせてください。テレビも見ません。ゲームも先生に預けます。お願いします。」
私は両親に向き直った。
両親もまた、「お願いします」と深く頭を下げた。
「これは、私が決めることではありません。彼の保護責任者であるご両親が決めることです。」
翌週の月曜日から、A君は両親に登校を許された。下校後の五日間は、これまでの作業のお礼として、私が主要五教科の学習を集中的に支援した。美術や技術などの未提出作品も、すべて提出させた。
A君は再登校を果たしたものの、内面ではA(大人の自我状態)が十分に育っておらず、「なぜ学ぶのか」「自分はどう生きたいのか」という主体的判断が形成されていなかった。そのため、外的圧力が弱まると、再びFC(快楽的な自由な子ども)が前面に出て、テレビやゲームに流れたのである。
ここで叱責や管理を強めれば、A君は再びAC(順応した子ども)として表面的に従うだけだっただろう。それでは、以前と同じ人生脚本をなぞるだけである。
本介入の核心は、
「学ぶ自由」と同時に、「学ばない自由の結果」を体験させたこと
にある。
意図的に「不登校にさせる」ことで、彼は初めて、
• 学校に行かない
• 勉強をしない
という選択の現実的な重さと向き合うことになった。
掃除という単純で逃げ場のない作業は、彼のA(大人)を静かに刺激する。
「自分は何をしているのか」
「この時間をどうしたいのか」
三日目、四日目、五日目と続く変化は、内面でAが立ち上がってきた証拠である。
土下座して懇願した場面は、屈服ではない。
それは、ACではなくAから出た「選択としての決断」だった。
そして決定権を支援者が持たず、親に返した点に、この支援の倫理性と深さがある。
親が「許可」を出し、子どもが「選ぶ」。
この構造が、A君の自尊感情を回復させ、再登校を「やらされる行動」から「自分で選んだ行動」へと転換させた。
時に、不登校は「問題」ではない。
それは、人生脚本を書き換えるための一時的な装置になり得る。
この事例は、そのことを雄弁に物語っている。
親の離婚 2018年10月20日
「何か私、勉強も何もかもがバカバカしくなっちゃったよ……。親が正式に離婚したんだ。」
そう語り出した彼女は、まだ母親と一緒に暮らしていた。もっとも、母親は料理もほとんどせず、洗濯も自分の分をするついでに、私たちの分をやってくれる程度だった。そのたびに文句を言われた。
離婚する前から、毎晩と言っていいほど男の人と遊び歩き、今では籍が抜けたことを理由に、さらに好き放題している。
私は気持ちを切り替えて、頑張っているつもりだった。でも、もう辛くて苦しくて、「私は何のために生まれてきたんだろう」と思わずにはいられなかった。悔しくて、悔しくて……。
毎日いろいろなことがあり、少し立ち直れば、またイジメられる。そんな生活を続けるうちに、私は疲れ果て、何もかもが嫌になってしまった。
自分のことが大嫌いで、どう生きていけばいいのか分からなくなった(涙)。
私は母親にとって、いったい何だったのだろう。
「自分の幸せ、幸せ!!」
その言葉を聞くたび、私はもう限界だと感じていた。
母は私に「現実を見ていない」と言う。でも、現実を分かろうとすればするほど、子どもにとっては辛いことばかりだ。
それでも私は現実から逃げたくなかった。だから、母親に対する甘えや期待を必死に押さえ込もうとした。そうしなければ、「私」でいられなくなってしまう気がしたからだ。
本当は、こんなやり方が良くないことくらい分かっている。でも、幼い頃からのトラウマを少しでも抑えられるのなら……そう思ってしまった。
外を歩けば、親子で手をつないでいる姿が目に入る。そのたびに、親子の大切さと、言葉にできない切なさが胸に広がる。
母は男の人の話や過去の話を平気でする。そして口癖のように言うのだ。
「こんなに子どものことを思って、好きなことをさせて、お金も出して、愛情を注いでいるのに」
私は、母からひどい子だ、冷たい子だと思われてもいい。本当は、もっと素直になりたい。私だって。
でも、「あんたと暮らすのはあと少し」とか、「恨まれたくない」などと言われると、胸が締めつけられるほど辛くなる。
私は“今”を、もう自分の力で乗り越えなければならない。辛いことや苦しいことから逃げずに。
自分が経験したこと、今まさに経験していることを、無駄にしてはいけない気がする。
――頑張るね。
連休中、母は家を出ていった。実家には戻らず、アパートで暮らすという。
この頃の私は、すっかり気力を失い、部屋も洗濯物も、勉強道具も、すべてがぐちゃぐちゃになってしまった。外にもほとんど出ず、布団に潜る日が続いた。
母が家を出て一週間が経った。先週からずっと予備校にも行けていない。
今週末は試験だ。
いろいろと大変で辛いけれど、それでも自分で決めたことは、後悔しないようにやろうと思う。
二か月後、私は父の実家に戻る。
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この語りには、「親の人生脚本に巻き込まれた子ども」の典型的な苦しみが表れている。
母親は、自身の欲求や不満を優先しながらも、「私は十分に愛情を注いでいる」というCP(批判的な親)のメッセージを繰り返し発している。一方、彼女はその言葉を真正面から受け止め、感情を押し殺し、理解しようとするAC(順応した子ども)として振る舞わざるを得なかった。
本来、子どもが親に向ける甘えや怒り、悲しみは、FC(自由な子ども)の健全な感情である。しかし彼女は、それらを表に出すことが許されない環境の中で、「感じないこと」「期待しないこと」を生き延びる術として選んだ。その結果、「自分が分からない」「自分が嫌い」という自己否定へと追い込まれていったのである。