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高校生Kのつぶやき 2018年10月20日

友だちと話していて「辛い」と感じ始めたのは、中学二年の頃だった。部活動でもいろいろあった。その頃から、何をやってもつまらなくなった。笑っているだけでも疲れる。

授業中、先生の話が理解できない。そのことでも悩んでいたが、誰にも相談できなかった。
もし一か月後の中間テストで、全教科二十点以下でも、学校の先生は何とも思わないのだろうか。期末も同じでも留年しないのか。追試でパスできるから大丈夫なのか。

なぜ中学までは何とかなったのか。教科数が少なく、範囲が狭く、同じ問題の繰り返しだったからだ。パターンが変われば解けない。実際、もう解けていない。間違いなく、このままでは留年する。

集中したいのに、できない。そのこと自体がさらに辛さを増す。すぐに忘れてしまう。眠れない。行動も鈍くなり、本当に倒れそうだった。

英語は意味がわからない。数学もわからない。授業はどんどん進み、わからないまま置いていかれる。焦りだけが募る。他の教科も同じだ。追いつけない。落ちぶれていく感覚。

「死にたい」「生きている価値がない」――そんな言葉が頭に浮かぶようになった。

そんな中、山下先生のアドバイスで英語Ⅱの予習をしてみた。すると、それなりに理解できた。数学も、落ち着いて復習すると、分かる部分が出てきた。

半年前、山下先生に出会い、話を聞いてもらい、学校にも足を運んでくれた。両親や学校の先生も、その時は皆、温かかった。「できないなら、少しずつでいい」と言ってくれた。母は一日中、隣にいてくれた。

だが、今は違う。一方的に怒鳴られる。学校の不安も、勉強の不安もあるのに、「焦るな」「父とやれば間に合う」と言われる。自分一人ではできないから待っているのに、その気持ちは伝わらない。
山下先生が両親にアドバイスをしてくれた。母は励ましてくれるようになり、父も一緒に勉強を見てくれるようになった。

これまでの勉強は、理解せず、丸暗記で何とかしてきた。しかし、それでは通用しないと分かっていた。それでも、前の課題は暗記で乗り切れた。問題文もろくに読まず、理解しようとしても、発想や推理、結びつけることができず、結局暗記に頼っていた。

そんな時、山下先生からメールが届いた。

君は「理解より暗記」と思い込んでいる。実は微分は理解できているのに、それを否定し、暗記だと思い込み続けている。その自己否定が、心理的限界を生んでいる。
中学の勉強は暗記でも通用した。しかし高校の内容は、理解がなければ暗記できない。「意味も分からず必死に覚えろ」と言うが、意味が分からないものは覚えられない。九九だって、原理が分かるから覚えられる。

高校では、理解を避けて暗記に頼ると、量の多さで必ず限界が来る。今、その状態だ。まず、じっくり考え、理解することだ。

ある日、体育の授業で記録の書き方が分からなかった。先生の説明も理解できない。友だちに聞いても速くて分からず、「知っていて当然」という態度に感じられた。結局、先生に聞いたが、「考えろ」と言われたように感じた。

学校にいると、自分が自分でなくなる。何をしているのか分からない。怖い。みんなが怖い。家に帰った。

行こうとしたが、緊張して駄目だった。二時間だけ学校に行き、担任に怒られた。事情を知らないのに説教されることが、つらかった。

山下先生が、気持ちと課題を整理してくれた。
• 一つでもいいから、本当の実力をつける
• 数学・現代国語・英語に絞る
• 毎日、予習と復習をする
• 他教科は赤点回避を目標にする
• テスト前に覚えられることだけ覚える

中間テストの結果が出た。
やればできることが分かった。勉強の本当の意味が少し分かった。

高校卒業後、専門学校に行けるかもしれないと思えた。
イライラが減り、理解しやすくなり、他の教科にも手を出せるようになった。
成績は少しずつ上がり、「みんなと同じかもしれない」と思えるようになった。
学校生活が、少しずつ楽しくなっていった。

専門学校へ進学できると、自分自身で感じられるようになった。
――楽しい人生を送れるかもしれない、そう思えた。

秘密に苦しむ少女  2018年10月18日

6月下旬、高齢のご両親が相談に訪れた。
 40歳半ばで授かった一人娘、A子さん(17歳)の進路についての相談である。4歳上の兄は大学進学を機に東京に出ており、現在は両親と3人で暮らしているという。

 A子さんは、B高校通信制課程の2年次に在籍していたが、前月、仲間に呼び出され集団で殴られる事件に遭い、退学に至った。
 本人は「高校は卒業したい」という強い希望を持っており、当フォーラムと提携するC高校通信制課程へ編入。以後、週3日電車で当フォーラムの教室に通い、学習を始めた。

 通い始めてしばらくすると、彼女は少しずつ自分の過去を語り始めた。

 小学4年生の時、長く寝たきりだった祖母が、目の前で亡くなった。
 死に顔を見た衝撃は強く、言葉にできない恐怖として心に残ったという。

 自分は「とても寂しがり屋」だとも語った。
 一人の友達に強く依存し、独占しようとしては距離を置かれる。その繰り返しだった。
 小学5年生の時、家庭科の授業後、友達に準備室に連れて行かれ、叱られた。怖かったが、理由には納得できなかった。

 中学生になると、「チクリ魔」と呼ばれるようになった。
 友達が学校に携帯電話を持ってきたことを、母親が教師に伝えたと誤解されたためだった。実際には別の生徒が報告していたのだが、その事実は彼女に届かなかった。

 次第に同年代の子どもと関わることが苦手になった。
 誰かの笑い声が聞こえると、「自分が笑われている」と感じ、その場を避けるようになった。

 進学したD高校では、友人関係の中で嘘をつかれる経験が重なり、心が折れた。
 その後、B高校通信制課程へ転校したが、今回の出来事でそこも去ることになった。

 7月下旬、長野県内で行われた3泊4日の交流合宿に参加した。
 小・中・高校生、大学生、スタッフ合わせて30名余りが参加する合宿だった。

 彼女は大学生リーダーや他校の高校生たちと自然に打ち解け、さまざまな活動を楽しんだ。
 最終日の夜、交流会を終えた後、彼女は私の部屋を訪ねてきた。

 「すごくいいリーダーさんたちで、参加してよかったです。高校生のみんなとも友達になれて、ほんとによかった」

 満面の笑顔だった。
 しばらくそんな話をした後、彼女は急に声を落とし、静かに語り始めた。

 小学5年生の夏、知らない男性に公園の茂みに連れ込まれ、身体を触られたこと。
 恐怖で体が動かず、声も出なかったこと。
 その後、男の人が怖くなり、毎日走って下校していたこと。
 そして、親に心配をかけたくなくて、今まで一度も話せなかったこと。

 さらに彼女は続けた。

 「先生……実は私、1年前、数か月だけ援助交際してたんです。
 お金のために……。
 あれほど男の人が怖かったのに、自分でもおかしいって思ってました。
 どうせ自分は汚れてるんだから、って……」

 言葉を吐き出すように語った後、彼女は苦笑いを浮かべた。

 「……ああ、言っちゃった。
 こんなことが知られたら、もう彼氏なんてできないですよね」

 しばらく沈黙が流れた後、彼女はぽつりと付け加えた。

 「でも……レイプも、援交も……
 女の子が、こんなに苦しんでるってこと、知ってほしいんです。
 じせきのねん……? そんな気持ち……」

 彼女の語りは、決して「告白」ではなかった。
 秘密を抱え続けることで壊れそうになった自己を、必死で守ろうとする言葉だった。

 交流分析の視点で見れば、彼女の中では
 - 傷ついたC(子ども)
 - それを責め続ける厳しいCP(批判的な親)
が強く働き、安心して受け止めるNP(養育的な親)が育たないまま思春期を迎えていた。

 「どうせ汚れている」という自己否定は、出来事の結果ではなく、長く秘密を抱え続けた心の防衛反応である。

 語れたこと自体が、回復の第一歩だった。が、回復の第一歩だった。
 

俺の暴力を力ずくでも 止めてほしかった  2018年10月15日

八月五日、母親が一人で相談に来た。共働きの家庭である。
中学三年の長男は、小学五年生の頃から学校に行き渋るようになり、中学年の二学期から完全に不登校になった。

小学六年生の時、心療内科でWISC―Ⅲを受け、「言葉での表現がうまくできない」と言われた。中学二年になると家庭内暴力が激しくなり、県の児童相談所にも相談したという。

家族構成は、両親と三人きょうだい。姉が二人おり、二十二歳と十九歳。二人とも高校を早々に中退し、家を出てすでに結婚していた。
「どうして家を出たのですか」と尋ねると、二人とも口をそろえて「父親とは考え方が合わなかった」と答えた。現在、父親は実家に別居しているという。

その後、週二回のペースで本人、姉たち、父親、それぞれからじっくり話を聴いた。
両親は、長男が生まれた頃から不仲になり、子どもたちの前でも構わず罵り合い、時には暴力にまで発展したという。父親が突然家を飛び出すことも多く、子どもたちは常に不安の中で過ごしてきた。

家族全員の心理テストも実施し、それらの情報を基に、彼と何度も話し合いを重ねた。

十月中旬、彼の同席のもとで両親と面談を行った。
私は、夫婦の和解が彼の登校の条件であると伝えた。これは事前に本人の同意を得ていた提案であり、姉たちも賛成してくれた。

両親は予想外の提案に戸惑いながらも、不承不承に同意した。

翌週の月曜日から、彼は登校を再開した。
しかし両親の関係は変わらなかった。約束を守らない両親に対し、彼の苛立ちは再燃し、再び欠席するようになった。

やむなく私は、当教室で平日に出席認定を受けながら学習することを提案した。彼はそれに同意した。その頃、姉たちの父親への不満も再び噴き出していた。

十二月初旬、彼と両親を事務局に呼び、三者で話し合いを行った。
彼の不登校を責める両親に対し、約束を守らない親への怒りが、彼の口から噴き出した。

「どうしてお前の不登校に、親の仲直りが関係あるんだ!」

父親が怒鳴った瞬間、
「くそ親父の馬鹿野郎!」
彼は父親に殴りかかった。

とっさに私は、彼の腕と胸ぐらをつかみ、壁に押し付けた。
「親に向かって『くそ親父』とは何だ! それに暴力は許せん!」
私も本気で怒鳴り返した。

その瞬間、彼の目から大粒の涙があふれ出た。

「……ありがとう、先生」

意外な言葉だった。
彼は嗚咽混じりに続けた。

「俺さ……イライラして、分かってても殴ったり、暴れたりしちゃうんだよ……。
先生みたいにさ、力づくでも止めてほしかったんだよ……」

両親はしばらく、言葉を失っていた。

彼は訴えた。
暴走する自分を、身を挺して止めてくれる存在。
それを父親に求めていたのだと。

私は彼に、一か月間の寮のある私立中学校での体験入学を提案した。彼はそれを受け入れた。

入校して二週間後、父親から電話があった。
「明日、うちのと一緒に子どもの様子を見に行ってもいいでしょうか」
「本人が同意すれば」と答えた。

二週間前まで激しく罵り合っていた関係が、わずか二週間で変わっていた。
子どもの存在の大きさに、親の方が耐えられなくなったのだ。実は子どもも、同じ思いを抱いていた。

再会した二人は、言葉少なに互いの存在を確かめ合っていた。

昔から言われる、「子は鎹(かすがい)」という言葉が、現実のものとして立ち現れた瞬間だった。

この出来事をきっかけに、夫婦の和解が始まり、親子関係も修復に向かった。父親は実家から自宅に戻った。

彼はそのまま中学校を卒業し、高校へ進学。
その後、専門学校で調理師免許を取得し、現在は県内のホテルで働いている。

交流分析で言えば、彼の暴力はC(子ども)の暴走であり、それを止めるべきP(父性)が不在だった。
人は、止められなかった怒りほど、後で自分を責める。
だからこそ彼は、「止めてほしかった」と叫んだのだ。

いい友達だね、よかったね 2018年10月12日

相談が入ったのは5月7日だった。
 中学3年生の娘、Aさんが連休明けから学校に行っていないという。家族は公務員の父、パート勤めの母、小学6年生の弟の4人家族である。

 Aさんは中学2年生になって担任が新任の女性教師に替わった。生活指導は非常に厳しく、授業中はもちろん、掃除中も私語は禁止。ハンカチやティッシュの持ち物チェック、名前が書いていないと教師がその場で記入する。
 この指導に反発した生徒が、クラスで12、3人出始めた。

 女子7人がグループを作り、担任の靴箱に抗議文を入れたり、口答えをするようになった。その中心にいたのがAさんだった。
 彼女は漢字テストでは常に満点、中間・期末試験でも200~210点を取る学力の高い生徒で、自然とグループのリーダー的存在になっていった。

 しかし2学期に入り、状況は変わる。
 グループで万引きをし、ばれずに済んだことで面白さを覚え、繰り返すようになった。授業中に菓子を食べ、ガムを噛む。
 “ワル”と呼ばれる男子グループと付き合い始める子も出てきた。泊まり合いが常態化し、溜まり場ができ、たばこに手を出す者もいた。
 親を騙してポケベルを持ち、時間も場所も選ばず連絡を取り合う日々が続いた。

 そんな中、Aさんの成績は急落した。中間・期末試験は120~140点台。部屋で泣き伏すこともあったという。

 まず本人に会った。下を向き、黙り込んでいた。
 私の運営する学習塾の生徒でもあったため、場を和らげるようにこんな話をした。

 「この前Aが休んだ英語の授業でね、あの頭のいいSが『先生、カメって何?』って聞いてきたんだよ。
 『え? カメ?』って聞き返したら、『c・a・m・eのカメ!』って。みんな大笑いだよ。come(コメ)ったやつだよね」

 Aさんは、クスッと笑った。

 その後、休んだ英語を教えると、彼女はぽつりと口を開いた。
 「〇〇たちに無視されて、学校で居場所がないんです」
 続けて、胸の内を吐き出し始めた。

 「学校から帰っても、お母さんがいなくて、ずっと寂しかった」
 「お父さんとお母さんの期待に応えなきゃって、必死だったんです」

 仲間たちからも話を聞いたが、すぐには核心にたどり着かなかった。
 10日ほどかけて、状況が明らかになった。

 万引きや授業中の菓子の件は、実はAさんが強く主導していた。しかし担任に追及された際、
 「みんながやろうと言ったから」
 「菓子はみんなで買って食べた」
と、責任を仲間に向けた。

 この「いい子」の振る舞いが、仲間たちの怒りを決定的にした。
 4月下旬、昼休みに呼び出され、6人から一斉に不満をぶつけられた。これが、彼女の不登校を決定づけた出来事だった。

 その後、Aさんは当教室で中学校の出席認定を受けながら学習を続けた。並行して、私が間に入り、仲間一人ひとりと話し合いを重ねた。
 当然、簡単には進まなかった。保護者にも協力をお願いした。

 9月、校長の理解を得て、彼女は私の知人が運営する老人ホームに住み込みで行き、高齢者の生活を手伝うことになった。

 「こんなお年寄りの世話をして、感心だねえ」
 「ありがとう、いい子だね」
 「いくつ?」
 「15歳です」
 「え? 学校は?」

 9月下旬、Aさんは居たたまれなくなり、戻ってきた。
 しかし、「本当にいい経験だった」と語った。

 再び当教室で学習を続け、進路について家族や学校とも話し合いを始めた。その頃、仲間たちにも彼女が戻ってきたことが伝わった。

 12月初めの土曜日、午後4時半過ぎ。母親から電話が入った。
 「B子から電話があって、みんなが話したいって。5時にC公園に行くって、自転車で出かけました」

 私は母親を車に乗せ、C公園へ向かった。近くに車を止め、木陰から様子を見守った。
 ベンチや地面に円になって座り、話し合いが始まった。

 20分ほど経った頃だろうか。笑い声が聞こえてきた。

 後でAさんはこう話してくれた。
 「お互いに悪かったところもあったし、言いたいことも全部言った。でも、このまま卒業するのは嫌だよねって。仲間だからって」

 一人ひとりが思いを語り、謝り合ったのだという。

 話を聞いた母親は、目に涙を浮かべて言った。
 「……いい友達だね。よかったね」

 交流分析で見れば、Aさんは「良い子のA(アダルト)」で集団をまとめ、嫌われないように振る舞っていた。しかし限界を超え、責任回避という形で関係を壊してしまった。
 それでも、本音で語り合い、FC(自由な子ども)同士で関係を結び直したとき、人はもう一度つながることができる。

 その姿を、私は木陰から静かに見守っていた。

勉強のやる気が出ない。 2018年10月11日

「僕の尊敬する人

 〇〇 S(彼の名前)

 **中学校の3年間で、僕が一番尊敬する先生は、山下先生です。山下先生は、僕が通っている塾の先生です。先生は、勉強のやる気が出ない僕を直してくれました。僕は学校の授業中、よく寝てしまい……」

 ある年の4月、不登校の相談でC中学校を訪れた際、教頭先生がこう言って一枚の作文を手渡してくれた。S君が書いたものだった。

 彼の両親が最初に相談に来たのは2年前、S君が中学1年生の3月下旬である。
 勉強をしない、授業中に寝てしまう、相手を苛立たせる言動がある。高機能自閉症のグレーゾーンとも言われ、精神安定剤2種類と精神刺激剤を服用していた。

 小学校4年生のときに受けたWISCⅢの結果も見せてもらった。注意記憶と処理速度が、年齢平均を下回っていた。加えて行った心理テストでは、自信の低さ、社会性と自立性の弱さが際立っていた。

 対応を始めて1か月ほど経った5月3日。塾が休みであることを利用し、午後1時に教室へ来てもらった。
 彼と向き合い、私は静かに尋ねた。

 「どうして勉強しないの?」

 彼は答えなかった。
 私は待った。
 沈黙が続いた。視線を交わしながら、言葉のない時間だけが流れていった。

 30数分が経過した。私自身、初めて経験する沈黙のカウンセリングだった。
 やがて、彼の表情がわずかに動いた。

 「……うーん」
 「うん?」
 「うーん」
 「え?」

 言葉ではなく、目での会話が始まった。

 「わからないんだよね。鉛筆を持つと、やる気が失せるんです」

 沈黙が、ようやく解けた。

 「どんな気分になる?」
 「……すんごく嫌な気分になるんだ」
 「そうなんだね」

 私は彼の前に椅子を一つ置き、「エンプティ・チェア(空いす)」療法を行った。

 彼の母親は、S君が5、6歳の頃、なかなか文字や自分の名前が書けないことに強い不安を抱いていた。嫁という立場もあり、焦りの中で、椅子に縛りつけてでも書かせ、覚えさせようとしたという。

 空いすを通して、5、6歳のS君と、その時の母親を、彼自身の中で向き合わせた。
 対話は45分ほど続いただろうか。

 交流分析で見れば、彼の「やる気のなさ」は怠慢ではない。
 強いCP(批判的な親)の刷り込みによって、FC(自由な子ども)が凍結し、鉛筆を持つこと自体が恐怖と結びついていた状態だった。

 薬の影響で授業中眠ってしまうこともあり、医師と相談し薬を変更した。それまで車での通塾を渋ることもあったが、この日を境に、彼は自分の足で歩いて通塾するようになった。

 その後、S君は紹介した地元の専修学校を卒業し、プログラマー養成の専門学校へ進学。現在はプログラマーとして働いている。

 「やる気を出させる」のではない。
 やる気を奪っていた過去と、丁寧に向き合う。
 それができたとき、子どもは自然に前を向き始める。

 教頭先生から渡されたあの作文は、そのことを静かに証明してくれていた。

お陰様でMもようやく落ちついてきました。 2018年10月10日

「暑中お見舞い申しあげます。
暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
お陰様でMもようやく落ちついてきました。夜遊びもしなくなり、逆に変な気分です。
お体を大切にお過ごし下さい。
盛夏」

 8月、こんな暑中見舞いが藤枝市在住の母親から届いた。

 相談があったのは、その年の5月8日である。対象は、13歳、中学2年生の娘、Mさんだった。家族構成は、会社員の父親、専業主婦の母親、そして高校1年生の兄という、ごく一般的な家庭である。

 問題行動は深刻だった。
 春休みの3月26日、上級生4人の女子に呼び出され、同級生女子4人との「タイマン」に参加。その後も、下級生を脅したり、仲間内でのタイマン、さらには集団での暴力行為にまで発展していた。

 ピアス、喫煙、いわゆる根性焼き、無断外泊、深夜徘徊、不純異性交遊――。
 どれも単発ではなく、日常化しているという訴えだった。

 対応を開始した。
 まず、本人と丸一日かけて、徹底的に話を聴いた。評価や説教はしない。ただ、事実と気持ちを言葉にしてもらうことに集中した。

 次に、仲間たちとも時間をかけて話し合った。Mさんは、同級生6人のグループの中で、リーダー的な存在だった。しかし実際には、上級生を含む男子8人、女子9人が複雑に絡み合い、さらにその兄や姉、焼津や菊川といった他地域の中学生グループともつながっていた。

 私は、仲間の保護者とも会った。
 時には深夜徘徊に同行し、他グループからの呼び出しにも付き合った。とにかく、切らず、逃げず、話し合い続けることを選んだ。

 心理テストを行い、個別のプログラムも組んだ。交流分析で見れば、彼女の問題行動は、単なる反抗ではない。強いエネルギーを持つFC(自由な子ども)が、所属と承認を求めて暴走していた状態であり、それを受け止め、枠を与えるCPとNPが、どこにも安定して存在していなかった。

 翌年の4月から、Mさんは毎日午前中3時間、当フォーラムの教室に通い始めた。学習を中心とした生活リズムを整えることが目的である。中学校は、その通所を出席として認定してくれた。

 そして8月、あの暑中見舞いが届いたのである。

 「夜遊びもしなくなり、逆に変な気分です」
 その一文には、混乱の日々が終わり、日常が戻りつつある戸惑いと安堵が、率直ににじんでいた。

 問題行動を止めること自体が目的なのではない。
 安心できる関係の中で、エネルギーを使い直せるようになること――それができたとき、行動は自然と落ち着いていく。

 この暑中見舞いは、そのことを静かに教えてくれた。

援助交際 18年10月9日

「中学生にみだらな行為――
**警察署と県警生活安全部は20日、県青少年環境整備条例違反の疑いで、神奈川県**市***、無職A容疑者(41)を逮捕した。同容疑者は1月**頃、出会い系サイトで知り合った県**部地区の女子中学生(14)が18歳未満であることを知りながら、**市内のホテルでみだらな行為をした疑い。」
(**年**月21日付**新聞朝刊)

 援助交際――。
 それまでは、都会の一部の少女たちの問題だと、どこかで思っていた。

 相談が入ったのは2月に入ってからだった。しかも、この月で2件目である。相談者は、少し大人びた、整った顔立ちの中学2年生の女子生徒だった。

 彼女は、夕方から仕事に出る母親を「親だとは思っていない」と言った。小遣いが足りなくなると、母親とは別れ、年齢も一回り以上離れた実父に電話をし、5万から6万円を受け取っていた。その父親は、自分を「友達みたいな、ものわかりのいい父親」だと考えている人物だった。

 彼女は同級生や高校生、さらには社会人など、複数の男性と関係を持っていると語った。そして、まだ中学生でありながら、自分が**性への依存状態にあることを自覚しており、「どうしていいかわからない」**と訴えてきた。

 私は、ただ驚くばかりだった。

 彼女の話によれば、最初は月に一度程度、「少し我慢をすれば小遣いがもらえる」という感覚だったという。ブランド物の服を買ってもらえることもあり、それが特別なことだとは思わなくなっていった。

 やがて相手の男性を、「無職だが資産があり、男気のある紳士」だと感じるようになり、会う回数も増えていった。金額は月に十数万円ほどになったが、彼女自身は、もはやお金以上に、その人物に父親の代替を求めていた。

 関係は次第にエスカレートし、彼女自身も「自分から求めている自分」に気づいたという。このままではいけないと思いながらも、自分の力では止められない――それが、彼女の置かれていた状態だった。

 これは、援助交際の一つの実態である。

 交流分析で捉えるなら、彼女の内面では強いAC(順応した子ども)と、歪んだ形で刺激を求めるFC(自由な子ども)が前面に出ており、それを支え、方向づけるはずの父性的なCPと、安心を与えるNPが、家庭内で十分に機能していなかった。

 事実確認を行い、5日後、依存状態から彼女を切り離すため、本人の同意を得た上で通報を行った。

 現在、彼女は三つ年上の男性と結婚し、二児の母親として生活している。

 援助交際は、単なる「非行」ではない。
 満たされなかった承認と、守られる経験の欠如が、誤った形で表出した結果であることを、私たちは直視しなければならない。

字を大きく書くことで気持ちが変わる・・・ 2018年9月24日

2008年頃のことである。当グループが運営していた東進衛星予備校藤枝駅前校(現在は藤枝駅南口校)に通う、藤枝東高校3年生の女子生徒(島田市在住)から、7月のある日、相談を受けた。
 彼女は静かに、しかし切実な表情でこう語った。
「私は小さい頃から、ずっとお父さんに言われた通りにやってきました。島附(静岡大学附属島田中学校)に進み、言われるまま今は藤枝東に通っています。1年生の12月の文理選択でも、『お前は女の子だから文系に行きなさい』と言われ、自分の考えを言えないまま文系に進みました。今は、『本が好きなんだから、静岡大学の文学専攻に行きなさい』と言われています。でも、私は……」
 言葉は、そこで途切れた。
 当時の東進衛星予備校は、ビデオテープで配信される衛星授業を各校舎で録画し、生徒一人ひとりが学習計画に沿って受講する仕組みだった。生徒は翌日の受講内容を「予約受付ノート」に自分で書き込む。そこには、その子の性格や状態が如実に表れる。
 丸文字が流行していた時代でもあり、文字の癖は実にさまざまだった。「予約受付ノート」なのに、勢いよく「先生、試合、勝った!」と一言だけ書く生徒もいれば、控えめに予定だけを書く生徒もいる。
 その中で、私は以前から気になっている生徒がいた。彼女はいつも、小さく、弱々しい文字を書いていた。その生徒が、目の前の彼女だった。
「なりたい職業があって、行きたい学部もあるんです。でもお母さんに相談すると、『それはお父さんに言って』と言われてしまいます。でも、お父さんに面と向かって言えないんです」
 交流分析で言えば、彼女はAC(順応した子ども)が非常に強く、自分の思いを抑え込んできた状態だった。
 私は彼女に、こう伝えた。
「この予約受付ノートに書くときも、学校の授業中も、友達にメモを書くときも、どんな場面でもいい。字を、めいっぱい大きく、強く、はっきり書いてごらん」
 これは思いつきではない。行動の変化が内面に影響を与えるという、心理学的な裏付けに基づくアプローチである。
 それから約2か月後、9月のある日曜日。一人の男性が校舎を訪ねてきた。
「ここでお世話になっている〇〇の父親ですが、やました先生はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが」と答えると、彼は少し照れたように、しかし嬉しそうに話し始めた。
「この間、娘が初めて私に意見を言いに来たんです。それが、もう嬉しくて。どうしたんだ?と聞いたら、静岡大学の教育学部に進んで、小学校の先生になりたい、と言うんです。正直驚きました。でも、『そうか、そうしなさい』って言ってやりました」
 彼は続けた。
「小さい頃から、反抗期らしい反抗期もなく、大人しくて、進路も『ここに行きたい』なんて言ったことのない子でした。その娘が、初めて自分の想いを口にしたんです。どうしてだろうと思ったら、東進の先生に『毎日、字を大きく書きなさい』って言われた、と言うんですよ。えっ、それだけ?って思いました。でも、そんな小さなことで、こんなに変わるものなんですね。今日は、そのお礼がしたくて来ました」
 もちろん、この2か月間、私が関わったのは文字の書き方だけではない。日々の何気ないやり取りの中で、彼女に意見を尋ね、気持ちを言葉にする機会を少しずつ増やしていった。
 しかし、その土台になったのは、「字を大きく書く」という、ほんの小さな行動の変化だった。
 順応し続けてきた子どもが、自分の輪郭を取り戻すきっかけは、案外こうした些細なところにある。
 これもまた、私たちが行ってきたプログラムの、ごく一部のエピソードである。