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豪州・ペンリス市 春ゆめの大自然交流合宿に参加して Aさんの場合 2009年10月4日

豪州・ペンリス市春ゆめの大自然交流合宿に参加して――Aさんの場合
 当時中学二年生だった彼女は、本交流合宿に参加したリーダーの母親の同級生の長女であった。その縁で、九月四日、初めて相談を受けた。
 中学一年生の六月、些細なスポーツ用品の話をきっかけに友人関係がこじれ、学校を休みがちになった。一年生で五十日欠席、二年生の一学期は二日だけ登校したものの、二学期からは完全に足が止まった。
 彼女は、結婚から六年目にようやく授かった一人娘だった。幼少期は活発で、友人の輪の中心にいることも多かった。しかし成長とともに次第に大人しくなり、「いい子」と言われる存在になっていった。家族構成や家庭環境からも、本人の性格傾向が推察できた。

心理テストと初期分析
 九月八日に行った心理テストでは、以下のような結果が出た。
• CP(父性)2
• NP(母性)57
• A(知性)98
• FC(感性)30
• AC(順応性)80
 周囲の目を過度に気にし、周りの評価や責任感に囚われて疲弊する傾向(ACの高さ)が見られた。考えすぎて行動に移せない性格(Aの高さ)も重なり、自ら答えを出せずに堂々巡りしている状態だった。私は母親に、豪州・ペンリス市での交流合宿への参加を勧めた。

交流合宿前後の変化
 一月十三日、実施説明会で再度心理テストを採ったが、基本的には九月と変わらなかった。しかし、三月二十一日に行われた二回目の参加者交流会では変化が見えた。
• CP 42
• NP 63
• A 78
• FC 38
• AC 92
 CPの上昇から、自分が何をすべきかという意識が芽生え始めたことがうかがえた。事前の英会話研修や参加者交流会を通じて、同世代との交流に抵抗が薄れ、自己表現の準備が整いつつあったのである。

豪州での経験
 四月一日、33名の参加者とリーダー・スタッフ総勢51名で藤枝市役所を出発。十時間の飛行を経てシドニー空港に到着し、ペンリス市国際友好協会の協力のもと歓迎式典に出席した。参加者一人ひとりにBuddy(ペア)が割り当てられ、現地での生活や授業が始まった。
 初日の夕食はBuddyとバーベキュー、二日目はBuddyの学校で授業を受け、午後はフェザデイル野生動物公園を見学、夕食はピザパーティ。三日目はブルーマウンテインを見学し、午後はBuddyと買い物を楽しんだ。夕方からはBuddyの家族と送別会に参加し、ブッシュバンドに合わせて大ダンスを行った。彼女はBuddyや仲間たちとすっかり打ち解け、充実した表情を見せた。

劇的な心理変化
 帰国便の機内で採った心理テストの結果は次の通りであった。
• CP 3
• NP 77
• A 98
• FC 83
• AC 42
 FC(感性)とAC(順応性)が逆転し、周囲の目を気にせず、同世代の仲間と自然に関わる自信が現れていた。この変化により、私は彼女の不登校解消を確信した。

帰国後の登校
 しかし、新学期の初日、母親から「やはり学校に行けませんでした」という電話が入った。翌日も登校できず、少し不安がよぎった。ところが四月八日、母親からの電話で「Aが、じゃあ行ってくるね、と言って行きました」と報告を受けた。普段通りに待つ母の姿勢と、交流合宿で培った自信が合わさり、学校復帰が実現したのである。

成果とその後
 本交流合宿により、Aさんを含む四名の不登校児が学校復帰を果たした。参加者たちは、海外での交流や自己表現の経験を通じ、同世代との関わりや自己肯定感を回復することができたのである。

二人三脚の苦悩 2009年10月3日

Aさんが学校へ行かなくなったのは、中学二年生の一月下旬だった。
それは、前触れのない、突然の出来事だった。
きっかけは、思いがけないところから訪れた。
母親の同級生の娘が、たまたま当フォーラムでリーダーを務めており、
四月初めに実施予定の
「豪州・ペンリス市 春ゆめの大自然交流合宿」
に、Aさんを誘ってくれたのだ。
二月下旬、Aさんは急遽、その交流合宿に参加することになった。

見えない「理由」
三月中旬、母親が私のもとを訪れた。
Aさん本人に心理テストを行ってみたが、
一般に言われる「不登校の素因」は、どこにも見当たらなかった。
Aさんは、小学一年生から体操を続けていた。
教室は二つ隣の町にあり、母親は何年もの間、送り迎えを続け、
まさに二人三脚で彼女の体操人生を支えてきた。
運動神経は抜群だった。
厳しい練習にも耐え、着実に上達していった。
だが、中学生になる頃から、
「体操をやめたい」
と、ぽつりと漏らすようになったという。
中学二年生になると、
長く一緒に体操をしてきた友人が部活をやめ、
一方で、技量の高い後輩が現れ始めた。
八月、再び彼女は「やめたい」と口にした。
私は、学校に行かなくなる直前の出来事について尋ねた。
すると、母親は思い出したように言った。
「体操の新しいルールの講習会に出たあとから、休み始めました」
私の記憶に、あることが浮かんだ。
その年のルール改定で、
女子の鞍馬が横長から縦長に変更されたはずだった。
私は母親に尋ねた。
「Aさん、その変更を怖いと感じた可能性はありませんか?」
母親は少し考え、こう答えた。
「でも、Aには、あれくらいどうってことないと思います」
その言葉を聞いたとき、
私は、はっきりと見えた気がした。

「やめたい」と言えなかった理由
体操は、好きだった。
けれど、それは次第に
「楽しみ」から「競技」へ
変わっていった。
それでもAさんは、やめると言えなかった。
なぜなら、そこには、
母親と二人で積み重ねてきた時間があったからだ。
期待。
努力。
犠牲。
それらすべてを裏切るような気がして、
彼女は言葉を飲み込んだ。
二月、Aさんには「赤ちゃん返り」とも言える行動が見られたという。
心が、限界を迎えていたのだ。
私は、本人と直接話をした。
答えは、やはり同じだった。

心がほどけた瞬間
ペンリスでの交流合宿最終日。
送別会の場で、自然発生的にダンスの輪ができた。
私は、思わず声を上げた。
「A! A!」
Aさんへのコールだった。
彼女は一瞬ためらい、
次の瞬間、輪の中心へ飛び出した。
そして、
バク転から宙返りを二度。
会場は一気に沸いた。
拍手と歓声が巻き起こった。
そのときのAさんの笑顔は、
競技として体操をしていたときとは、まったく違っていた。
軽く、晴れやかで、
「自分で選んで、表現している顔」だった。
その夜、私は彼女と向き合って話をした。
彼女は、静かに言った。
「部活を、やめたいです」
それは、逃げではなかった。
初めて、自分の意思で選んだ言葉だった。

親の決断
帰国後、Aさんは学校に通い始めた。
私は、母親に彼女の決意を伝えた。
母親は、しばらく黙ったあと、こう言った。
「先生、私に考える時間をください」
無理もない。
何年も続けてきた体操。
しかも、四か月後には中体連が控えていた。
そこで活躍する娘の姿を、
母親が夢見ていたとしても、不思議ではない。
約二週間後、母親は再び私のもとを訪れた。
「娘のために、娘の気持ちを受け入れることにしました」
その言葉は、
Aさんの人生を、静かに解き放った。

それぞれの道へ
Aさんはその後、
ダンス部のあるT高校へ進学した。
二人三脚だった時間は、
決して無駄ではなかった。
だが、
並んで歩く時期には、終わりがある。
それを受け入れたとき、
親も、子も、
それぞれの足で前に進み始める。

結び
不登校は、
「怠け」でも
「弱さ」でもない。
それは時に、
親子の関係が、次の段階へ進むためのサインとして現れる。
Aさんは、
その静かな合図に、最初に体で応えた。

豪州・ペンリス市 春ゆめの大自然交流合宿に参加して Kさんの場合 2009年10月2日

 九月二十五日、A中学校のM養護教諭から、中学二年生の女子生徒について相談を受けた。長期欠席が続き、ほとんどをカウンセラー室や相談室で過ごしているという。
 初回の心理テストでは、強い特徴がはっきりと表れていた。
 正義感や自己規律を示すCP(父性)と、思考力を表すA(知性)が非常に高く、反対にNP(母性)とFC(感性)が極端に低い。周囲への適応を示すAC(順応性)も高く、人の目を強く意識している状態だった。
 小学校六年生のとき、いじめを受けた経験があるという。
 集団で問題行動を起こす同級生を許せない気持ち。
 人と関係を築くよりも、一人で考え、本を読む方が安定する日常。
 彼女の安定は、人と距離を取ることで保たれていた。
 ご両親もまた、本人と似た心理傾向を持っていた。
 自分にも他人にも厳しく、考えすぎて出口が見えなくなる。
 結果として、家族全体が緊張を抱えやすい状態だった。
 出席認定を取りながら、彼女は当フォーラムに通うことになった。

合宿への誘い
 十二月から募集が始まった「豪州・ペンリス市 春ゆめの大自然交流合宿」に彼女を誘った。同じく不登校でフォーラムに通っている同学年の女子生徒二人も声をかけてくれたが、彼女はしばらく考え込んだ。
 ところが、数少ない友人の中でも特に親しい同級生が、この合宿に参加することになった。
 年が明けた一月十三日。
 彼女は母親に連れられ、途中から実施説明会に姿を見せた。
 その日の心理テストでは、CPとACが下がり、他者への厳しさと対人場面への抵抗感が弱まっていた。
 私は、この時点で参加の可能性を感じた。
すぐには変わらなかった
 二月から始まった参加者交流会、英会話研修にはすべて参加した。
 三月に入る頃には、グループの仲間と打ち解け、笑顔や大きな声も見られるようになった。
 三月二十一日の交流会での心理テストでは、NPとFCの数値が上がり、人と関わる力が育ち始めている兆しが見えた。
 しかし――
 交流合宿からの帰路、飛行機の中で行ったテストでは、多くの数値が一月の状態に戻っていた。
 この合宿だけでは、不登校の解消には至らなかった。
 だが、それは失敗ではなかった。

時間をかけて、変わったもの
 帰国後も彼女はフォーラムに通い続け、学習やカヌーなどの野外活動に参加した。
 人と関わる体験を、少しずつ、何度も重ねた。
 やがて、心理テストにははっきりとした変化が現れる。
 人の目を気にしすぎるACが下がり、感情や対人の柔らかさを示すFCとNPが育ってきた。
 授業に参加することへの抵抗が弱まり、
 人間関係を築く糸口が、ようやく見え始めた。
 夏の信州・八ヶ岳交流合宿と夏期講習を経て、彼女は同世代の仲間との関わりと学習に自信をつけ、二学期から授業復帰を果たした。

その後の歩み
 彼女は県立S高校に進学し、学習に励み、同校の推薦を得てK大学に入学した。
 現在は大学三年生である。
 以下は、中学三年生の一月、県教育委員会の取材に応じて彼女が書いてくれた文章である。(原文をそのまま掲載)
「私がクラスヘ戻れたきっかけの一つは、去年の春オーストラリアヘ行ったことです。 欠席していた時からお世話になっている先生が誘って下さった『春ゆめの大自然交流合宿』 に友達と一緒に参加しました。 そこで長期欠席をしている自分を知る人は殆どいなく、事前のダループ研修やや英会話 研修から気軽に人と接することができました。そして,人と一緒に行動することへの抵抗 感がだんだん無くなってきました。 オーストラリアでは現地の人選のおおらかさや、日本とは異なった土地柄の影響もあっ たのかもしれません。そこで、自分を表現することの大切さを知りました。慣れない英語 を使い、現地の人選とコミュニケーションすることはとても大愛だったけれど、とても楽 しいものでした。たった5日間でしたが、世界の広さを知ることもでき、すばらしい経験 をさせてもらったと思っています。今年もオーストフリアに行く企画があるので、姉と一 緒にまた参加する子定です。2度目なので、もっと積極的に人と関わっていきたいと思って います。将来は、こういった経験を生かし、どこにあっても必要とされる人間になりたい です。」
平成21年10月2日

この事例が示すこと
 このケースが教えてくれるのは、
 一度の体験ですべてが変わるわけではない、という現実だ。
 合宿は魔法ではない。
 だが、変化の「種」にはなる。
 人と関わる安全な経験を積み、
 失敗しても戻れる場所があることを知る。
 その積み重ねが、
 彼女を教室へとつなぎ直した。
 回復は、一直線ではない。
 遠回りに見える時間こそが、
 確かな土台になることもある。

豪州・ペンリス市 春ゆめの大自然交流合宿に参加して Nさんの場合 2009年10月1日

彼女と出会ったのは、ある年の九月だった。
中学校の教頭先生、担任の先生、そして女性カウンセラーの三名が、私のもとを訪ねて来られた。
相談内容は、Nさんの不登校についてだった。
ただし、彼女は「まったく学校に行けない」わけではない。
登校はしている。だが、教室に入れない。授業に参加できない――そんな状態が続いていた。
彼女は以前、イギリスを訪れた経験があり、外国や異文化には強い関心を持っているという。
そこで学校側は、私たちが実施している海外交流合宿が、一つの突破口になるのではないかと考え、今回の訪問に至ったのだった。

「表に出られない理由」
その年の春に行う交流合宿は、前年に大きな反響を呼んだダンスショーを活動の中心に据えることにしていた。
私は例年通り、秋からスタッフ会議を重ね、合宿内容を詰めていった。
十二月に募集を開始すると、ホームページのみの告知にもかかわらず、十日ほどで定員に達した。
翌年一月十日、藤枝市文化センターで実施説明会を開催した。
合宿の目的、日程、訪問先であるオーストラリア・ペンリス市の紹介が一通り終わったあと、
今回のメイン企画であるダンスショーについて、プロダンサーのTSUYOSHI君が説明をしてくれた。
最後に、彼は参加者に向かってこう呼びかけた。
「ダンス、やりたい人は一緒にやろう!」
参加は自由。無理強いはしない。
その方針は、最初から決めていた。
説明会が終わり、会場の片づけを始めたときのことだ。
Nさんが、私と談笑していたTSUYOSHI君のもとへ歩み寄り、はっきりとした声で言った。
「TSUYOSHI先生、ダンスを一緒にやらせてください。お願いします!」
一瞬、彼は驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑顔になり、
「うん、やろう!ありがとう!」
と、彼女の肩にそっと手を置いた。
そのときの、Nさんの笑顔。
あれほど晴れやかな表情を、私は忘れることができない。

心が先に動き出していた
その日、彼女に行った心理テストには、すでに変化の兆しが表れていた。
Nさんは、
・周囲の目を気にしやすい
・人に気を遣いすぎる
という傾向を持っていたが、同時に
・感性が豊か
・自分を表現する力の芽
も、はっきりと確認できた。
私は、この交流合宿が彼女にとって、不登校解消のきっかけになると確信した。

「楽しい」が扉を開く
二月十一日、第一回目の参加者交流会が藤枝市内で行われた。
参加者は小グループに分かれ、リーダーたちと共にゲームや対話を重ねていく。
Nさんは、そこでも明るい表情を見せていた。
この合宿には、Nさんのほかにも、不登校、あるいは不登校傾向のある子どもたちが参加していた。
交流会の最後に、再び心理テストを行った。
その夜、結果を分析した私は、正直、驚いた。
彼女の心の中で、はっきりとした反転が起きていたのだ。
「楽しい」
「やってみたい」
という感情が、
「どう思われるだろう」
という不安を上回った瞬間だった。
私はすぐに中学校へ連絡し、
「そろそろ、得意な教科から授業に参加してもいい時期です」
と伝えた。
学校側は半信半疑だったが、二月下旬、
彼女は英語の授業から教室に戻り始めた。
三月に入るころには、
英会話研修、ダンス練習、ミーティングに毎週参加しながら、
全教科の授業に出席するようになっていた。
Nさんの不登校は、自然に解消していた。

世界の中で、立ってみる
四月。
オーストラリア・ペンリス市での交流合宿が始まった。
異文化、初対面の人々、共同生活。
決して楽な体験ばかりではない。
それでも彼女は、自分の力で人と関わり、言葉を交わし、笑い合った。
帰国の機内で行った心理テストは、
彼女が心のバランスを取り戻し、自信を獲得したことを明確に示していた。
Nさんの言葉
合宿後、彼女は次のような感想を書いている。
「最初は本当に心配でした。
誰かを傷つけてしまわないか、疲れすぎてしまわないか、不安でいっぱいでした。
でも今は、心から『素晴らしい旅だった』と言えます。
英語にも自信がつきました。
大勢の中でもやっていける力をもらいました。
迷惑をかけてしまった人もいると思います。
だから謝りたいし、同時に、感謝の気持ちを伝えたいです。
この経験を、これからの人生に生かしていきたいです。」
おそらく彼女は、
「自分の何気ない一言が、誰かを傷つけてしまったのではないか」
という思いを抱え、教室に入れなくなっていたのだろう。
だが、この交流合宿の中で、
人と関わることは、怖いことばかりではない
という事実を、体験として手に入れた。

結び
不登校の背景には、
「弱さ」ではなく、
優しさと感受性の強さが隠れていることが多い。
Nさんは、環境と体験が整ったとき、
自分の力で、その殻を破った。
それは、誰にでも起こりうる変化である。

学校に戻らなかった選択―中学不登校・高校中退から、世界へ向かった青年
 彼が中学三年生の四月、学校に行けなくなったとき、私は公立中学校から初めて正式な相談を受けた。学年主任が私の高校時代の同級生だったことが、そのきっかけだった。
 当初、学校側も家庭も、彼を「どう戻すか」に力を注いだ。しかし結果的に、彼は卒業まで、ほとんど学校に足を運ぶことはなかった。
 ご両親には早い段階でお伝えした。
 ――この子には、今は回復のための「何もしない時間」が必要です。
 無理に動かせば、もっと深く傷つきます。
 それは、支援というより覚悟のいる選択だったと思う。
 彼が自分自身を受け容れるまで、親は何も言わず、何も急がず、ただ見守る。
 その時間は、十八歳になる冬まで続いた。
 ある日、彼から一本の電話が入った。
 「英語を勉強したいんです」
 そこからの彼の集中力は、凄まじかった。
 わずか二年で英語を身につけ、初めて受けたTOEICで八三〇点を取った。その結果、ワシントン州の私立短期大学から、異例の形で入学が認められた。
 中卒、高校中退という経歴は、日本では「行き止まり」を意味することが多い。
 だが、彼は国を変え、環境を変え、過去から距離を取った。
 短大では、ほぼすべての科目でA評価を取り、連日深夜まで勉強する生活を続けた。その努力が評判となり、ワシントン大学学長から三年次編入の話が舞い込む。
 そして彼は、同大学を首席で卒業する。
 現在は、世界規模で事業を展開する自動車関連企業で、ナビゲーション開発に携わっている。
 だが、この話を「成功例」として読んでほしくはない。
 本当に伝えたいのは、そこへ至る前の時間である。
「止まっていた時間」が、彼を作った
 彼が高校を中退した当時、自分の判断を「最善だった」と信じていたこと。
 そして、後になって初めて、その判断を後悔したこと。
 その両方が、彼の手紙には正直に書かれている。
 親が「勉強しろ」と言うのをやめたこと。
 兄が、叱るのではなく、黙って寄り添ってくれたこと。
 何より、誰も彼を「急がせなかった」こと。
 もし、あのとき無理に学校へ戻していたら。
 もし、「普通のルート」に押し戻していたら。
 彼は勉強そのものを嫌いになり、自分を諦めていたかもしれない。
 止まっていた時間は、決して空白ではなかった。
 彼はその時間で、
・学ぶ意味
・親の存在
・自分が何をしたいのか
を、ゆっくりと掘り下げていた。

学校に戻らなかった選択 2009年9月30日

 彼は、中学校にも、高校にも「復帰」していない。
 それでも、人生は続いていく。
 学校に行かなかったことが、
 遠回りになった部分もある。
 苦労を増やした部分もある。
 だが同時に、
 彼にしか持てない視点と、
 人の痛みを理解する力を育てた。
 彼は手紙の最後で、こう書いている。
 ――今度は、自分が不登校や中退を経験した人たちを助けたい。
 学校に戻らなかった彼は、
 人の心に戻る道を、選んだのだと思う。

この事例が教えてくれること
 不登校や中退は、「失敗」ではない。
 ただし、「放置」でもない。
 大人がすべきことは、
 戻すことでも、急がせることでもなく、
 その子が自分で動き出すまで、環境を守ることだ。
 学校に戻らない選択が、
 その子の人生を狭めるとは限らない。
 むしろ――
 世界を広げる入口になることも、確かにある。

看護士になって学校に行かせてくれたお礼を 2009年9月29日

これはその年の春、3月26日、フィリピン・セブ島での交流合宿での出来事です。故シュバイツァー博士が資金を提供して設立した孤児院(ASFFPI)を訪問した際の話です。
引きこもりや不登校気味の青年、女子中学生たちと一緒に、私たちは3歳から17歳までの約20人の子どもたちと遊んだ。だるま落とし、紙風船、折り紙──たった2時間の間に、子どもたちの笑顔があふれた。
その中で、ひとりの高校生、マディーさんが私たちに声をかけた。「私、少しお話しさせてください」と。彼女は弟や妹たちのこと、そして施設の子どもたちが楽しむ姿を見て、自分の気持ちを伝えたいと思ったのだという。
通訳を通して聞いた話に、私は胸を打たれた。マディーさんの家庭は想像を絶する困難の連続だった。父親はアルコール中毒で働かず、母親は薬物中毒。5人の子どもたちは、まともな生活もままならなかった。カトリックの教えのために離婚はできず、母親が家を出た後、父親も子どもたちを養えず家を出てしまったのだ。
数日後、母親は子どもたちを連れて新たな生活を求め、この孤児院にたどり着いた。夜遅く、当時9歳のマディーさんにはここが孤児院だとはわからなかった。きれいな部屋で、子どもたちは明日からの生活に胸を躍らせ、並んで眠った。だが翌朝、母親の姿はなく、現実を知ったマディーさんは大きなショックを受けた。涙があふれ、通訳もまた、言葉を伝えるのが辛かった。
それでもマディーさんは話を続けた。
「皆さん、この施設の周りには、家も持てず、年中暑さにさらされながら高床の家で暮らす人たちがたくさんいます。衛生も悪く、満足に食事もできず、学校にも通えません。でも、私たちはこの施設のおかげで、弟や妹たちと一緒に寝る場所もあり、食事もでき、学校に行かせていただいています。だから、私は施設の職員の方々に恩返ししたくて、看護師になりたいと思っています。今日は弟や妹たちのために、楽しく遊んでくださり、本当にありがとうございました。」
その言葉に、自然と拍手がわき上がった。施設の一角には、子どもたちの表彰式の写真が並んでいた。成績優秀者として表彰されるたび、職員が親代わりとなり学校に呼ばれ、笑顔で写真に収まったのだという。「この子どもたちが私たちの誇りです」と語る職員の表情は、言葉以上に深く心に響いた。
この日、交流合宿に参加していた二人の不登校の女子中学生の心にも変化が生まれた。合宿の後、彼女たちは少しずつ学校に通い始めたという。マディーさんの言葉と笑顔は、遠く離れた場所で誰かの人生を動かす力になるのだ、と私は改めて感じたのだった。

学級崩壊の解消 ――B小学校・ある六年生の物語―― 2009年9月28日

「学校が怖い」
十一月上旬の夕方、突然一組の老夫婦が私を訪ねて来た。
少し前に放送されたテレビ番組で、私と当フォーラムの活動を見たという。
「孫が学校に行けなくなりまして……」
長野県の山間部にあるB小学校。
五年生の孫は、春先から「学校が楽しくない」「学校が怖い」と訴えるようになり、登校しても給食前には帰って来てしまうという。
成績の問題はない。
友達関係も一見すると良好だという。
私はこの時点で、ある二つの言葉に引っかかっていた。
――「楽しくない」ではなく、「怖い」。
いじめか、あるいは学級崩壊。
直感的に、後者の可能性が高いと感じていた。

理想の教師が招いた混乱
三週間後、今度は父親本人が訪ねて来た。
直前に学校から緊急の保護者会が開かれ、校長がこう告げたという。
「五年生のクラスは、現在学級崩壊の状態にあります」
やはり、という思いと同時に、事態の深刻さを改めて突きつけられた。
このクラスは一年生から四年生まで、規律を重んじる女性教師が担任だった。
挨拶、宿題、身だしなみ。
厳しいが、子どもたちにとっては「お母さんのような先生」だった。
ところが五年生から、教材開発で表彰歴のある男性教師が赴任する。
新学期初日、彼はこう宣言したという。
「私は、君たちの自主性を尊重する。
宿題はやりたければやればいい。
授業も、邪魔しない限り何をしても構わない」
その言葉は、前任教師の否定として子どもたちに受け取られた。
特に、クラスを支えてきた数人のリーダー格の児童が強く反発した。
放任は、自由ではない。
統制を失った教室は、急速に秩序を失っていった。

崩れていく教室
宿題は出されなくなり、授業は形骸化する。
教師と児童の衝突が増え、教室では物が飛ぶようになった。
やがて、児童同士の関係も壊れ始める。
特定の子が標的にされ、不登校や転校を考える家庭も出てきた。
冒頭のC君は、その板挟みになった。
教師の授業そのものは嫌いではない。
しかし、教室に漂う緊張と分断に耐えられなくなっていった。
私は調査を重ね、この学級の最大の問題が
「教師の善意と、子どもたちの現実との断絶」にあると確信した。

子どもたちを「一つの群れ」に戻す
では、どうすればいいのか。
私は「話し合い」や「指導」ではなく、
共同作業によって関係を再構築する道を選んだ。
ダンスと、カヌー作り。
一見、学級崩壊とは無関係に見える二つの活動だった。
だが、身体を使い、役割を持ち、成果を共有する体験は、
子どもたちを再び「群れ」に戻す力を持っている。
プロのダンサーの協力を得て、ダンスイベントを企画した。
同時に、地元の天竜杉を使った手作りカヌー制作を進めた。
少しずつ、子どもたちの表情が変わっていった。

埋まらなかった溝
子どもたちはまとまり始めた。
しかし、担任教師との溝は最後まで埋まらなかった。
象徴的だったのが、交流会として企画した五平餅とスモークチキンの会だ。
教師は約束の時間に現れず、子どもたちは失望した。
その夜、私は悟った。
外部からできることには、限界がある。
翌日、校長に意見を求められ、私は率直に伝えた。
「このクラスを無事に卒業させるためには、担任交代しかありません」

そして、教室は戻った
数か月後、担任教師は教室を外れた。
副担任を中心に体制が変わると、教室は驚くほど落ち着きを取り戻した。
宿題を喜んでやる子が出てきた。
給食後も教室で談笑する姿が戻った。
翌春、十九名全員が揃って卒業式を迎えた。
後日届いた一通の手紙には、こう記されていた。
「子どもたちが、子どもらしく学校に通えるようになりました」

学級崩壊は誰の問題か
学級崩壊は、特定の教師や子どもの責任ではない。
理念と現場、理想と現実、そのずれが臨界点を越えた時に起こる。
そして何より、
子どもは「群れ」の中でしか育たない。
その事実を、大人がどこまで本気で理解しているか。
この物語は、私にその問いを突きつけ続けている。

不登校の解消 K君の場合 2009年9月26日

彼は現在、高校一年生である(2009年当時)。
今では毎日、当たり前のように学校へ通い、笑い、友人と語り合い、充実した高校生活を送っている。
だが、ほんの一年前まで、彼は「学校に行けない子」だった。
その変化を、最も近くで見てきたお母さんから、私は一通のメールを受け取った。
以下は、プライバシーに配慮したうえでの抜粋である。
「一年前のKのことを思い出しました。
あの三年間と比べると、今のKはまるで180度変わりました。
とにかくよく話し、よく笑います。
先輩に殴られ、納得できない理由だったため、先生の了解を得て殴り返したこと。
クラスの仲間に執拗にからかわれ、『これ以上やると本気で殴るぞ』と言ったこと。
白髪を担任の許可を得て黒く染めたこと。
こんなふうに自分を出せるようになったのは、寮生活での自立が大きかったのだと思います。
勉強に対しても意欲が出てきました。
大学に行くかどうかは分かりませんが、勉強しようとする姿勢が嬉しいです。
いじめのニュースを見るたび、胸が痛みます。
ゲームのようにリセットできないことを、どうか多くの子どもたちに知ってほしいと思います。」
この文章を読みながら、私は初めて彼と会った日のことを思い出していた。

「自分を出せない」少年
彼と初めて会ったのは、前年四月十七日。
NPO静岡県教育フォーラムの教室だった。
家族は祖父母と両親、三歳下の弟の六人家族。
彼はその長男である。
中学一年生になったばかりの四月下旬、彼は七人の同級生から、
筆箱を隠される、無視される、仲間外れにされる――
そんな、いわゆる「静かな、しかし逃げ場のないいじめ」を受け始めた。
クラスはわずか二十一人。
その中で七人から標的にされれば、居場所は失われる。
欠席は次第に増え、
一年生の後半には、放課後に誰もいなくなった教室にだけ顔を出すようになった。
二年生になると、午前中に一、二時間授業を受けて帰宅する生活。
欠席日数は四十日を超えた。
三年生になっても状況は変わらず、
新聞で見た「不登校・引きこもり無料相談会」の記事を頼りに、彼は私の前に座っていた。

心理テストが示したもの
初回面談で行った心理テストの結果は、はっきりしていた。
彼は
・自分の意見を出さない
・周囲に合わせすぎる
・嫌われることを極端に恐れる
という傾向が強かった。
私は彼に、こう伝えた。
「君は“あなた色に染まります”というタイプだね。
『どこに行く?』『どこでもいい』
『何食べる?』『同じもので』
そうやって生きてきたんじゃないかな」
彼は驚いた表情で、
「今日初めて会ったのに、どうしてそこまで分かるんですか」
と尋ねた。
私は答えた。
「分からなければ、これまで百人以上の不登校の子を社会に戻してこられなかった」
彼が学校に行けなかった原因は、
弱さではない。
自分を出せない構造にあった。

小さな「自分で決める」
五月に入り、私は彼に一つのプログラムを提案した。
目的はただ一つ。
自分で決める力を育てることだった。
連休明け、彼からメールが来た。
「修学旅行があるんですが、先生は行った方がいいと思いますか?」
私は即答しなかった。
代わりにこう返した。
「君は、どうしたい?」
数日後、彼から再びメールが届いた。
「今日、学校に行ってきました。
明日から修学旅行に行ってきます。」
修学旅行は、彼にとって大きな転機になった。
「楽しかった。いじめていた子たちとも、普通に話せました」
という報告が届いた。

「賭け」に見せた決断
次の段階として、私は夏の海外交流合宿を勧めた。
しかし、出発一か月前、彼は急に参加を拒み始めた。
そこで私は、ある「演出」を用意した。
出発十日前。
私は彼と母親を呼び、こう告げた。
「君の分の航空チケットは、もう発券した。
使うかどうかは君が決めていい」
沈黙が流れた。
「この合宿で、本当に変われますか?」
彼のその問いに、私は即答した。
「変われる」
彼は顔を上げ、
「分かりました。参加します」
と言った。
(実際には、このチケットは“賭け”ではなかった。
彼が決断できる場をつくるための、周囲の協力による演出だった)

そして、自分の足で立った
合宿は予期せぬトラブル続きだった。
行き先は変更され、環境は想定外。
だが、そのすべてが、彼にとって必要な体験だった。
山を登り、息を切らし、仲間に励まされ、
頂上からの景色を見たとき――
彼の表情は、初めて会った頃とはまるで違っていた。
合宿中に行った心理テストは、はっきりと示していた。
彼はもう、「自分を出せない子」ではなかった。
「学校って、楽しいね」
帰国後、彼は体験入学を経て、高校進学を決意する。
そして新学期、ついに中学校の授業に復帰した。
その日の夕方、
「学校って、楽しいね」
と父親に話す彼の声を聞き、
お母さんは電話口で言葉を詰まらせた。
私はその報告を聞き、静かに受話器を置いた。
不登校は、特別な問題ではない。
「自分を出せない構造」が解けたとき、
子どもは、驚くほど自然に前へ進み始める。
K君は、それを教えてくれた一人である。

「不登校の解消 K君の場合」のエゴグラム。
キャプションの内容「2008.4.17 初回面談時 2008.8.18 交流合宿3日目 2008.8.20 交流合宿5日目」
2008.4.17 初回面談時 2008.8.18 交流合宿3日目 2008.8.20 交流合宿5日目

自信があれば、恐れずやらせればいいんです。2001年4月9日

あれから〇十数年経った今でも、この時の一言が忘れられない。

12月18,19日に、長野県下伊那郡泰阜村の「カントリーハットやまびこ館(当時)」で行われたキャンプでの出来事です。

このキャンプは、同村で当時20年に渡り通年合宿(山村留学)と夏冬期キャンプを行ってきた「グリーンウッド遊学センター」(当時)と、当フォーラムの野外体験クラブ(当時)との初めての交流でした。今年の夏に行うサマーキャンプに向けてのモニターキャンプとして企画されました。

当クラブからは会員の小学1,5年生の兄弟(トモ君、サッチャン)と3年生(スエッチ君)、私(ひげぐま)の4人が参加しました。さらに、同センターをご紹介頂いた「静岡カヌークラブ」のメンバーと同センターのスタッフを併せて、総勢13名の小さなキャンプとなりました。

雪の降る中、なんとインディアンテントであるティピーテントを張り、常識を破って寒風の吹く天竜川でカヤック下りを行うという、今思い返しても実に刺激的で楽しい体験でした。

ただ私は授業のため18日の土曜日からは参加できず、逆に3年生のスエッチ君はどうしてもティピーテント張りから参加したいと、担任の先生に事情を説明して1時間目で早退し、静岡から新幹線に乗って豊橋経由で泰阜村へ一人で向かいました。1年生と5年生の兄弟は学校を終えから電車で向かい、途中カヌークラブの高校生のお兄ちゃんと合流し、夕方から参加しました。

私は19日早朝3時半に藤枝を発ち、浜松でカヌークラブのメンバーのKさんの車に乗せて頂き、7時半にやまびこ館に到着しました。

到着してすぐ、庭に建てられたティピーテントの中を覗くと、中央の炉の周りに夕食の食べ残しがあるだけで、子ども達の姿は見当たりませんでした。

「もう散歩の行ったのかな?」と思い、館長のSさんに尋ねると、夕方から雪が降り始めたため安全を考慮し、子ども達の強い希望を取り入れつつ、ティピーテントでは仮眠のみとし、深夜0時頃、寝入っている子ども達を抱きかかえて館内の部屋に移してくださったとのことでした。

子ども達を送り出した後のことはすべてスタッフの皆さんにお任せてをり、ただただ感謝するばかりでした。

部屋に行くと、子ども達はすでに起きていて、元気にはしゃぎ回っていました。聞けば、朝3時にはもう目が覚めてしまったとのこと。遊び道具を取りにティピーテントに行こうとしたところ、野犬(実は近所の家の犬だったそうですが)がいて怖くて近づけず、仕方なく部屋に戻っておしゃべりをしていたそうです。

「初めて大きな杵で餅つきをして、カ・ガ・ミ・モ・チ?作ったよ。」
「シ・シ・ナ・ベに、大きなキノコ(Sさんの栽培している村ではちょっと有名な大きなしいたけのことです)ご飯、それにナメコ?おろし。すっごくおいしかったリンゴジュースも!」
「ティピーテントの張り方、もう覚えちゃった。あれって、ほんと暖かいんだね。天井が煙を出せるように空いてるんだよ。」

何から何まで初めての経験で、子ども達にとって相当楽しかったことが、私が声を挟む余裕もないほど、次々に飛び出す話から伝ってきました。

朝食後、参加者全員のミーティング。

当初の計画では午前中里山散策、午後カヌー体験の予定でしたが、私達の帰り電車が午後2時半の特急列車になったことから予定を変更、午前9時やまびこ館を出発して、天竜川での待望のカヤック体験となり、子ども達は大喜び。そうなれば行動は早いんですねえ、

子ども達はさっさと部屋に戻り、自分の荷物を手早くまとめ、掃除もそこそこで当センターのワゴン車に積み込んだカヤックの隙間に入り込み、向かった天竜川。藤枝の川と違うんですねえ。真冬でも水深3,4mもありましょうか、川幅340mの青々としたした水がゆったりと流れておりました。

静岡カヌークラブ会長のTさんの指導で、まずはライフジャケットの装着。「たとえひっくり返っても大丈夫だよ。」と言って下さっても、子ども達の心はもうカヤックの中なんですね。さっさとライフジャケットを付けて、カヤック選びを始める始末。ここで体の大きなサッチャンは、小さいライジャケットをベルトも締めず装着していたため、Tさんに注意され、付け直し。

さて、いよいよカヤック乗りです。今回は一人乗りのカヤックで、子ども達に一艘ずつ与えられ、大喜び。まずは川岸でパドルを使って一人乗りの練習。カヤックと岸とをパドルで橋渡しして、その上に座りながら少しずつ体をカヤックの方に移動して乗り込むんですが、子ども達の覚えは早かったですね。2,3回でマスターしてしまい、早速橋げたのたもとの深くよどんだところで乗船練習。

ここでもまずは会長さんがカヤックに乗って、パドルでの前進、後進、方向転換の仕方を指導してもらった。さらにどうすればカヤックがひっくり返るか教えてもらい、いよいよ待ちに待った乗船となりました。

ここは子ども達の方が度胸があるんですねえ。勿論みんな初めての経験だったのですが、私の心配をよそにさっさとカヤックに乗り込み、よどみの中央にこぎ出してしまいました。バランスを崩してヒヤッとする場面がありましたが、それで覚えちゃうんですね。「こうやって片っ方に体が寄っちゃうと、ひっくりかえっちゃうんだよね。」と頷く。「ちょっと危ない場面があっても、周りが慌てないことなんだよね。周りの人の動揺が移って本人が慌て、バランスを崩すこともあるんだよね。」と、会長さん。なるほどと思いました。私達は子ども達が練習をしているのを眺めながら、川原木を集めたき火を始めました。

乗り始めて30分も経ったんでしょうか、5年生のサッチャンがゆったりと流れる本流を指さして、
「ねえ、あっちに行ってもいいかなあ?」
と、大きな声で私達に聞いてきたんですね。私はエエッ-!と思ったんですが、カヌークラブの会長さんは何のためらいもなく、
「いいよお、自信があれば。」
と答えると、
「やっぱ、やめた。」
と、尻ごんでしまったサッチャン。

すると、暫くして今度は弟のトモ君が行きたいと言い出し、もう一人の3年生のスエッチ君も加わったものですから、遂にセンターのスタッフが伴走して行くことになりました。

乗り始めて1時間も経ってなかったんですね。カヌークラブの会長さん曰く、
「自信があれば、恐れずやらせればいいんですよ。転覆したって、ライフジャケットを付けるんだし、大丈夫。自信があるから、行きたいって言うんだら、まあ失敗はしないもんだよ。転覆すればしたで、転覆しない術を覚えるんだから、それも自信になるんですよ。」

一緒に参加していました右半身不随の若者とその伴走者のKさんも加わって、5人の天竜川本流の川下りとなりました。
「トモ君、大丈夫かなあ?」
と心配する兄のサッチャンに、元気よく
「じゃあね~、行って来ま~~す!」
と、出発。本流合流直前に方向を失って後ろ向きになるも、自力で立て直して無事本流に乗り、約800mの川下りをゆっくり楽しんできました。

それを見てもお兄ちゃんのサッチャンもやっぱり行きたくなり、5人が帰ってくるのを待って、今度は会長さんが伴走してサッチャンが出発。約2時間のカヤック体験となりました。

すっかり疲れ切って、3人の子ども達と私は特急列車の豪華な座席に沈み込み、ぐっすりと寝てしまいました。暮れゆく伊那谷を思い出します。こうした活動から〇十数年遠ざかり、すっかり忘れかけていたものが何だったのか。

みんなと一緒に勉強したかった。 2001年3月12日

夏の日の少年
彼と初めて会ったのは、今から**年も前の夏でした。当時小学校4年生の彼は、参加して来たキャンプでは、ごく自然に年下の子や女の子の荷物を持ってやったり、学校の宿題の問題が解けないでいる友達には、自分も必死に考え答えを出しては懸命になって教えたり(答えが分からなくよく私の処に聞きに来たが)と、そんな心優しい子だった。
小学校では陸上競技に夢中になっていて、毎日放課後遅くまで練習をしていたわんぱく坊主であった。そんな彼も、時には当時学生だった私の下宿に勉強しに来ることもあった。そんな時は、二人で夜道自転車を引きながら帰り、色々な話をした。勿論、彼の話は陸上の話ばかりだった。今日50メートル走で何秒キャンプではごく自然に小さい子や女の子の荷物を持ってやったり出したとか、今日はこんな練習をしたんだとか・・・。

一本の電話
それから6年の月日が流れた12月のある日、私は知人から一本の電話頂いた。彼が少年鑑別所に送られ、ご両親が大変な思いをなさっているとのこと。あの彼が・・・・私には信じられなかった。
早速私は仕事のついでに二回ほど彼の家を尋ねたが、その都度お留守でお会いできなかった。日曜日ならばと思い、その週の日曜日の夕方、家族を連れて「近くに遊びに来たので」と、彼の家を尋ねた。幸いにご両親がいらして、久しぶりの再会に話が弾んだ。しかし、当然のように彼の話になり、ご両親の言葉が沈んできた。彼は自宅監察になってるにも拘わらず、友達の家に何日か泊まっては家に帰り、また着替えを持って家を出る状態だ、と言う。
ご両親からクリスマスパーティの招待を受け、彼の家を後にした。数日後、彼のお母さんからお電話を頂いた。私達が訪れた翌日、彼が家に帰って来て私達の訪問を聞き、懐かしがっていたと言う。6年前の、やはりクリスマスイブを私と彼の家族と一緒に過ごした思い出が、まだ彼の心の底に残っているらしい。クリスマスの日には 必ず帰ってくると言って、また家を出ていった、とのことだった。沢山の料理を前にして はしゃぎ回り、小学4年生なのに、アルコールの入ったシャンペンを舌でちょっぴり味見した彼。6年前のクリスマスパーティの光景が鮮明に思い出された。

クリスマスイブ
クリスマスパーティには、一歳になったばかりの私の息子と妻と三人でお邪魔した。彼 のご両親とお姉さんの出迎えを受けた。彼の姿はなかった。先程彼から少ししたら帰ると の電話があったと言う。彼も私の訪問を楽しみにしており、あれから2,3回電話で私が来 ることを確認したらしい。一時間ほどして彼が家に帰ってきた。
「いらっしゃい。久しぶりです。」意外な彼の言葉だった。と同時に、そう感じた自分を恥じた。私も既に彼にレッテルを貼って見てしまっていた。
「やあ、久しぶり。どう してる?」私と彼は、彼の部屋で暫く話しをした。何気ない話しか私はできなかった。髪を部分的に脱色し、眉を剃り、とても15,6歳の少年とは見えなかった。
程なくして彼のお母さんに呼ばれ、料理の並んだ居間に通された。私の息子は彼のお父 さんに抱かれてお菓子を頂いており、妻と彼のお姉さんは彼女の友達を挟んで楽しそうに 話していた。温かい家庭である。お互いにクリスマスプレゼントを交換し合った。彼は私の息子に熊のぬいぐるみをプレゼントしてくれた。息子はとても喜んで、彼にまとわりついた。彼は私の昔からのニックネームを忘れてはいなかった。優しい心も昔のままだった。街で私の息子へのプレゼントを探し回って、帰りが遅くなってしまったとのことだった。
お姉さんの友達のギターに合わせて歌を歌い、本当に楽しいクリスマスイブだった。目に涙を浮かべた彼のお母さん笑顔と、私の息子を抱き上げた彼の笑顔は、今でも私の目に焼き付いている。こんな明るく暖かな家庭なのに、なぜ彼は、・・・・。私には信じられなかっ た―いや、信じたくなかったかもしれない。
彼に、大晦日私の家に泊まりに来るように言って、彼の家をお暇した。私達の車が出て見えなくなるまで、彼と彼のご家族に見送って頂いた。私の息子も、後部座席に後ろ向きに立って、手を振って答えていた。

大晦日の夜
数日後の30日、彼は私の家に泊まりに来た。出迎えた私の家族に、「お邪魔します。」 と礼儀正しく挨拶した。一緒に夕食を済ませ、テレビを見ながら色々な話をした。彼が小 学校4,5年生の時の話や、その後の私の話など。「先生が結婚をして、子供がいるなんて。それに、家を建てたなんて。」と、彼は言う。「俺だって、歳が来れば結婚するさ。おまえも小学校4年生の時はこんなに小さかったのになあ。」彼は終始私のことを、昔のように「先生」と言う。次第にくつろいで言葉遣いが5,6年前の彼になってきた。私の家族は先に失礼して床に入った。その後、二人で大晦日の午前3時頃まで話し続けた。

みんなと一緒に勉強したかった
私は彼に、「どうしてこんなことになってしまったんだ?」と聞いた。「それが、・・・」 と、彼はここ数年の自分の事を語り始めた。前述の通り、小学生の彼は年下の子や女の子にはとても優しかったが、年上の子には少し生意気な言葉をはくことがあった。その彼が中学1年生の終わり頃、前の授業が長引き、次が体育の授業のため、皆急いで着替えをして運動場に集合した。ところが、2,3人の女生徒が間に合わず遅れてきたところを、いきなり先生が理由も聞かずに、その生徒達を殴った、と彼は言う。目の前でそれを見た彼は、カッとなり先生に、「どうして理由を聞かずに殴るんだ!」と言い寄ったが、先生に「おまえには関係ないことだ」と言われ、益々頭にきたんだ、と彼は話し続けた。私にはその話の真偽は分からない。彼の話ばかりを信じるのではないが、少なくとも彼のとった行動には、彼の性格が表れていた。気持ちが収まらない彼はその後、その先生の車にいたずらをしてしまい、学校で彼のことが問題となり、彼の反発と周りの目が悪循環をもたらし、いくところまでいってしまったようである。 話し終えて彼は、「でも、自分も悪かったんだ」と漏らした。「勉強の方は、どうだ ったんだ?」と言う私の言葉に、彼は、「全然分かんなくなってしまって、学校がつまんなくなってしまったんだ。」と答えた。「でも、俺もさあ、本当はみんなと一緒に勉強したかった。」

大晦日の朝の光
朝7時頃、彼の寝ている部屋から明かりが漏れていた。そっと覗くと、彼は既に起きていて、着替えも済ませていた。布団もきちんと畳んであった。「ゆっくり休んでいればいいのに。すこし散歩にでも行こうか。」彼と私は息子を連れて、近くを散歩した。大晦日の朝である。今日一日で今年は終わる。明日からは新たな年が始まる。私の息子をあやす彼。実に気持ちのいい朝だった。
その後、彼のお母さんから時々お手紙を頂いた。2年位経ったある日、彼の家に電話をし た。夜勤明けとのことで眠そうな声で彼が出た。元気で働いているようだった。

追記
もう確か**歳になっているだろう、彼。プライベートな部分もありますので、話の趣旨は替えず、一部修正させて頂きました。私は、ただ話を聞いてあげることしかできませんでした。何かをしたのではありません。いや、逆に、「ばっかだなあ、おまえ。そんなことして何になるんだ!」と、大人気なく夜中叫んでしまった私です。しかし、そう言われて頷いた彼。芽生えた正義感と上から押さえられることへの反発、あるいは、自分の行動を自制し切れない弱さに気付きながら、自立に必死にもがく子ども達。そんな子ども達に、自分をしっかり見つめ、肩肘を張らず、もっと自分に素直に生きてほしいと願うばかりです。