ひげぐま先生の2026年3月

”「光と糸」”2026.3.6(fri)

ハン・ガン氏のノーベル文学賞受賞後の初の作品という帯に惹かれて注文してしまった。確か、彼女の父親と兄も作家だったと思う。かつ、彼女は小説のみならず、詩も書く。本書は、これまで彼女が書いてきた小説についての随筆集であった。

例によってネタバレにならないように詳細は割愛するが、斎藤真理子氏の翻訳力もあると思うが、本当に読みやすい。某銀行で新規事業のため口座を作る作業中に読んでいたが、ついつい読みにめり込んでしまった。名前を呼ばれたのも気づかなかった。

まだ本書は3分の1しか読んでない。しかし大学教授でありながら、光州事件や済州島虐殺事件を題材に執拗に資料を集め調査し、人間の暴力性を小説にして淡々と述べながら、同時に人間の美しさを描こうとする。そして、詩でも表現する。彼女の才能に惹かれてしまう。

”「コブのない駱駝」下”2026.3.5(thu)

第5章「私」とは誰なのか?ー精神分析学との出会い。氏が京都府立医科大学に復学し、札幌医科大学を経て、ロンドンに留学、そこで精神分析学に出会う。

そして、第6章「心」をみつめてー精神科医、研究者、そして時々音楽家。驚いたことに氏は片目が斜視で、小さい頃から本が読むことが苦手だったという。勿論、このころに氏は斜視の手術を受け、眼は改善する。私も左目が小学生の頃から極端な弱視で、ソフトボールのフライの距離と方向が掴めず、「バンザイ」になってしまう。50代に入った時、使わない左眼が老化し「網膜剥離」を起こし、それを機に左眼に人口レンズを入れ、両眼で世界を見れるようになった。しかし、勿論その感覚は、流石に氏は違う。

氏も同じく斜視の手術を機に、普通の人が両眼で見たものを一つに統合して把握することを意識しないとできないことを経験する。そのことによって氏は、眼と心のあり方(二面性)の関係性を自覚するようになり、氏の精神分析学探究にも大きな影響を与えることになったという。

すなわち、氏は日本の神話や古典を素材にして、日本人の深層心理を読み解くようになった。「夕鶴」のつう。人間でありながら、鶴であるつうは、豊かに反物を生産しているのに、自身は傷ついているつう。こうした二面性、あるいは、どっちつかずの状態に関心をもち、日本人の深層心理を読み解く。

「古事記」の「伊邪那岐・伊邪那美神話」も然り。詳しく述べていくとネタバレになるので、割愛する。是非お読みください。同じく一面で精神分析に身を置く身とする私には、大変啓発される本だった。

”ここ数日、HPの引っ越しでご迷惑をおかけしました。”2026.3.4(wed)

ここ数日、ひげぐまグループのホームページのプラン変更に伴う引っ越して、一部の頁が読めなくなっていたり、メールが届かなかったりしまして、ご迷惑をおかけしました。本日の夕方から正常にご覧いただけるようになったかと思います。今まで同様宜しくお付き合いください。

ただ「小さな人間たちの詩」に関しまして、明日から読みやすいように仕様を変えますので、今暫く不都合が生じますことをご了承ください。

「コブのない駱駝」上”2026.3.3(the)

1965年、京都府立医科大学在学中に「フォーク・クルセダーズ」を結成に参加し、67年に「帰ってきたヨッパライ」でデビュー。翌68年解散後、作詞家として71年「戦争を知らない子供たち」で日本レコード大賞作詞賞を受賞。その後、九州大学大学院教授(臨床心理学)、同名誉教授となり、21年から白鴎大学長となっている北山修氏の自伝書である。私より9歳先輩である。

まだ氏が「フォーク・クルセダーズ」の時の話(第4章)までしか読んでないが、「オラは死んじまっただ」で始まる「帰ってきたヨッパライ」に、自らの思春期を振り返った時の率直な実感、すなわち、精神的に「自分」を殺すことで、生き延びることができたという感覚を現したというくだり。ウィニコットが言う、現実に生きている自分は「偽りの自己」であるが、「本来の自己」がこころの奥に存在していることに通じる。

人間は、自らの攻撃性をどう処理するのかで苦しむ生き物である。自分を傷つけることによって、自らの攻撃性を処理しようとする。「夕鶴」のつうがそうである。18年に自死した「フォーク・クルセダーズ」のメンバーであり、氏の親友・加藤和彦氏にも触れる。心理学的にも非常に興味深い話が多い。

そして、「イムジン河」の発売中止・復活の裏側。マスコミ体験の苦悩。ネタバレになり詳しく書けないが、ビートルズに通じる、彼らの音楽に対する姿勢が読み取れた。

第5章から氏の精神科医、臨床心理学の研究者としての話になる。楽しみだ。

”名大・九大入試直前近日体験受験に挑む”2026.3.2(mon)

昨日、計6名の現高校2年生が表題の試験に挑んだ。今回の受験生には最後の小論文を受験する生徒はいなかったので、受験時間は名大は9〜18時、九大は9〜17時10分。それでも、長丁場である。こんなことをここで述べていいのだろうか。流石に数学と理科・社会に至っては、まだ全単元学校の授業が終えてないのか、解答の空欄が目立った。それでも挑戦する意欲は素晴らしい。

東大・京大・東北大同日受験体験の時にも述べたが、彼らもそれぞれの志を持ってそれぞれの大学を目指しているのだろう。こうして受験生を見続けて50余年。特に国立大学入試は、国立1期2期試験、共通テスト・センター試験、再び共通テストと、大学が目指すアドミッションポリシーに従って受験形態は変遷してきた。

拙著「小さな人間たちの詩」の「大学」の項で述べさせて頂いたが、私は学びの究極は大学にあると思っている。だから、法的にも「大学の自治」は守られている。私がかつてその「大学」で哲学や国文学(万葉集)、刑法(そういえば、新安保論争もあった)で学んだように、若者には大学で大いに学んでほしい。

長丁場の試験を終え、机の上の消しカスを掃除し、「ありがとうございました」と挨拶をして帰っていく高校生に、つい「頑張れ!」と応援の言葉を掛けてしまった。

”「カウンセラーは何を見ているか」読了”2026.3.1(sun)

昨日、2月26日から3日間で読み終えた。開業カウンセラー・信田さよ子氏の、「傾聴」のみ(クライエントの表情を見ることなく、ひたすらクライエントが発する言葉のみで行う)カウンセリングに対して、「見て」「聞いて」「引き受けて」「踏み込む」カウンセリングのノウハウを開陳した本。リアルなカウンセリングを読ませて頂いた。

ただ本音を言わせて頂ければ、不登校やひきこもりの対応が多い私にとって、アルコール依存や性被害、DV被害のカウンセリングが主である本書は、少し距離を感じた。しかし、目の前のクライエントの「病理」や「症状」に着目してそれを失くそうとする医療行為ではなく、「問題」や「困りごと」を対象として、その「解決」のための援助をを行っている点では、大いに参考になった。また、本書の後半、氏が狭心症入院で出会った様々な患者の心理描写は、大変面白かった。

次に控えているのが、精神科医であり、元九州大学教授、フォークセダーズの北山修氏の「コブのない駱駝」。読後また、ここで書かせて頂こうと思う。